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太宰治の富嶽百景は何を伝えているのか

太宰治にとっての富士山とは

自身との照らし合わせによって富士山を描く

最初に富士山を見て太宰は、「実際の富士は鈍角も鈍角、のろくさと広がり、東西、百二十度、南北は百七十度、決して、秀抜の、すらっと高い山ではない。~中略~低い。すそのひろがっているわりに、低い。あれくらいのすそを持っている山ならば、少なくとももう一.五倍高くなければいけない」と言っています。

日本一高い山を相手に、「低い」とハッキリ言っています。それに加えて、以下のようにも言っています。
広重や文晁、北斎が描く富士は鋭角すぎていて、本来の姿とはかけ離れすぎているため、実際見るとそんなに驚嘆しないだろう。

しかし、十国峠から見た富士だけは高かった。
雲に隠れていた頂上部分を予測したら、その二倍もあった。
おどろいた、というより私は、へんにくすぐったく、げらげら笑った。
やっていやがる、と思った。
人は、完全のたのもしさに接すると、まず、だらしなくげらげら笑うものらしい。

この十国峠は、与謝野晶子など文学者も眺望の良さから多く訪れている場所ですから、単純に眺望が良かった思い出を語っているというシーンになります。

自分が今住んでいる東京のアパートから見た富士は、「苦しい」と表現しています。
それに嫌気がさしたのか、東京を離れて、小説の執筆活動をする決心をします。

そしてここからは、太宰の精神的な感情の変化によって、富士山の見方が変わっていくこととなります。

そんな彼が、富士の見える御坂峠(山梨県)にある井伏鱒二が初夏のころから仕事をしている茶屋の二階の一室を借りて、小説を書くために実際に太宰治は3か月間過ごしています。

毎日、富士を目の前に見ながら、生活を続ける中で、そこにいる人々と、富士山のいろいろな表情に出会っていくのです。

また、少し山を下った甲府(山梨県)には、主人公の結婚の見合い相手がいて、井伏鱒二が御坂峠の茶屋を引き上げる際に、主人公は甲府で見合いをします。
井伏氏が、「おや、富士。」とつぶやいて、主人公の背後の富士を見ると、主人公も富士を見ます。そして改めて振り返って娘さんを見たとき、きめた、この人と結婚したいものだと思った、と言っています。
そして二人は少しずつ距離を縮めていきます。

御坂の富士は俗でダメだと言っていたが、「富士には月見草がよく似合う」という言葉と共に、少しづつ上向いてくる心情が表現されていきます。

茶屋のおかみさんは、富士山を誇りに思っています。
花嫁姿のお客は、富士山に向かってあくびをします。

では主人公(おそらく太宰本人)から見た富士山はどうでしょうか。
①「富士など、先入観がなければ大した山ではない」
②「十国峠から見た富士だけはよかった」
③「東京のアパートから見た富士は苦しい」
④「御坂峠から見た富士は風呂屋のペンキ絵だ、芝居の書割だ」
⑤「霧がかかる三ツ峠で茶店の老夫婦が見せてくれた写真の中の富士は良かった」
⑥「甲府の娘さんの家で見た額縁に入った富士火口の鳥瞰写真はまっ白いすいれんのようでありがたい」
⑦「友達と御坂峠で見た富士(二度目)は俗っぽい」
⑧「ファンと御坂峠で見た富士(三度目)富士はえらい、敵わない」
⑨「御坂峠から見た富士(四度目)雪をかぶっていて、御坂の富士も馬鹿にできない」
⑩「寝る前に見る富士は、単一表現の美しさなのかもしれない」
⑪「遊女の客が来たときに御坂峠から見た富士(五度目)大親分のようだ」
⑫「甲府から見た富士は、甲府の娘さんとの会話に花を添えている」
⑬「花嫁が御坂峠に来た時に見た富士(六度目)花嫁が富士を見ながらあくびをしたことに反感を覚える」
⑭「若い二人の女性が来たときに見た十一月の富士に、お世話になりました」
⑮「甲府の安宿から見た富士は、ほおずきに似ていた」

物語が進むにつれて、結婚相手との縁談もまとまって、しばらく滞在した茶屋を引き払います。

主人公は、富士山も悪くないな、と思い直して物語は終わるのです。

少しづつ富士の見方が変わっていくさまが、主人公の状態を表しているようで、非常に面白い作品となっています。

最後は、自分が山賊のようななりをしているのに、「シャッターを切ってください」と若い女性二人にお願いされ、自分でもシャッターを切れる人にくらいは見てもらえることが嬉しくなって、女性を入れないで富士山だけを写してしまうユーモアたっぷりの落ちがついています。

最後まで、おちゃめな太宰治の作品らしい終わり方です。
途中の表現にも、クスッと笑える表現が多数あり、是非多くの人に読んでもらいたい作品です。

富士山の高さについて

太宰治の富嶽百景では富士山は3778メートルになっています これは、太宰治氏が間違って書いてしまったのでしょうか?印刷ミス?

いえいえ、実は理由がちゃんとあるのです 。

1887年 陸軍参謀本部の測量で3778mと発表されています。
その後 1926年 関東大震災後の測量やり直しによって、 3776mと変更されています(測量精度が上がっ た事及び侵食作用が原因)。
※「富嶽百景」が発表されたのは変更後の1939年ですから、太宰治氏は子供のころに学校で習ったか、もしくは聞き覚えていた高さをそのまま書いたと考えられます。

それだけでも、太宰治氏の頭の中を覗き見れた気分になりますよね。 とても面白いエピソードですね。

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