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「推し」がもたらすもの

「推し」とは何か

※登場する作品の一部ネタバレがございます。
まだ未読、未視聴の方は、その点をご了承ください。


『推しの子』に見る「推し」

『推しの子』という作品をアマプラで観た。
とはいっても、無料で観れたシーズン1だけだが、それでも私の中では十分すぎるほどの衝撃があった。
感想としては、「すごかった」というのが率直な感想。

きっかけはYOASOBIの『アイドル』という歌を一度聴いて、完全に虜になったからである。
「こんなすごい歌があるのか!」「幾田りらさんは、こんな歌い方もできるのか!」と衝撃を受けて、自然とその主題歌をつとめているアニメにも興味が行ったのが原因だった。というのも、YouTubeなどであらゆる人がこの曲を絶賛しており、なかでもYOASOBIの楽曲は全部当てはまるが、作品のストーリーと歌詞がリンクしていることが有名であり、作品のストーリーを知ればもっとこの楽曲のすごさがわかると思ったことが大きなきっかけであり動機だった。

『推しの子』という作品の中で、「推し」という存在は、生きる希望として描かれている。
病によって余命いくばかの少女が未来の無い自分を悲観し、希望の無い毎日を過ごしている。
そんな少女が或る日、同い年の一人のアイドルと出会う。それからというもの、「推し」という存在ができてからの彼女の生き方は、別人のようであり、まさに生きる希望に満ちたものと生まれ変わっている。

この作品の中では、アイドルである【アイ】という少女の生きざまも描かれているが、今回は「推し」ている側にとって、「推し」とは何なのかを考えてみたいと思う。

『推し燃ゆ』に見る「推し」

今回は、『推しの子』を観たことによって、「推し」とうものは何なのかを考えてみたいと思い、『推し燃ゆ』という宇佐美りんさんの作品も改めて読み直してみた。
『推し燃ゆ』は、2020年に初版が出ており、第164回芥川龍之介賞を受賞している作品である。
その当時も読んだものの、だいぶ忘れてしまっていたのでもう一度読むことにした。

主人公の【あかり】ちゃんは、何をやってもうまくいかない子として描かれており、そんな中「推し」である【上野真幸】というアイドルに出会う。
何をやっても上手くできなかった【あかり】ちゃんでも、「推し」の生写真を買うことや、コンサートに行くこと、CDを買うためなら、上手くできないながらも、アルバイトを頑張ることができた。
勉強ができなかった【あかり】ちゃんでも、「推し」のプロフィールはオレンジの蛍光ペンで書いたものを赤いセロファンで隠して、必死で覚えることができた。

自身ではどうしようもないほどの窮地に追い込まれている状況でも、「推し」という存在ができることによって、生きる希望になったり、生きるエネルギーになったりする。自分でも、信じられないほどの力を発揮することにもつながっている。これは、『推しの子』『推し燃ゆ』双方ともにいえることである。

「推し」という意味

推し(おし)とは、主にアイドルや俳優について用いられる日本語の俗語であり、人に薦めたいと思うほどに好感を持っている人物のことをいう

Wikipedia参照

岩波書店の広辞苑第七版には、「推し」の意味は掲載されていなかったため、Wikipediaを参照したが、「推し」とは、《人に薦めたいと思うほどに好感を持っている人物のことをいう》とある。

『推しの子』の中で、「推し」とは?という説明がなされていなかったと記憶しているが、『推し燃ゆ』の中では、「推し」についてこう記されている。

《坊主憎けりゃ袈裟まで憎い》の反対である。坊主を愛してしまったら、着ている袈裟のほつれた糸まで愛おしいと思えるものなのだ。

『推し燃ゆ』より一部抜粋

つまりは全面肯定である。
人のことを全面的に肯定することは良いことだとは言えない。
それは思考停止に当たるためで、そこに自分の考えや意見がまるでないことが、良くないこととしてあげられている。

しかし、この二作品の中に出てくる、二人の少女にこの常識が当てはまるのだろうか。
少女二人にとって、「推し」は生きる希望であり、明日を生きるために絶対に必要な存在である。
このような存在である「推し」はもはや、自分自身の中に存在すると言えるのではないだろうか。つまり、もはや、自分の一部なのだ。自分自身なのだと言えるのではないかと思う。

「推し」と「自分」の間に、明確なラインが引かれているなら、全面肯定は良いことではないものの、明確なラインの無い場合は、全面肯定することは自己肯定感が高いことを示すことになるのではないかと思う。

そうなってくると、この両作品の中で決定的に違う部分が注目される。
それは、「推し」が自分自身の中に留まっているか、自分の中から出て行ってしまうかという差である。
『推しの子』では、「推し」が自分の中に留まっているため、自分を失うことなく未来というものを見据えて歩むことができている。
一方『推し燃ゆ』では、「推し」が自分の中から出て行ってしまう(突然失う)ため、この作品の中で書かれているように、背骨を失ってしまい、自分自身を見失ってしまう。

これによって、「推し」というものが、自分の人生にもたらす非常に大きな影響と、《自己投影》しているような感覚がもたらす恐ろしさを、両方描いていると思う。

私も「推し」がいる。
この二作品に描かれているほど、「推し」の存在は大きくないものの、それでも「推し」がもたらしてくれる、明日を生きるための力を感じることは多い。
「推し」というものがもたらしてくれるのは、明日への希望か、背骨を失う恐怖か。
私たちはそんな究極の選択を迫られながら、「推し」を今日も応援している。

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