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長篇小説をどう読むべきか

長篇小説の「読み方」


宇宙に飛び出すロケット


以前にテレビで見た番組で、大学1年生の文学の授業に、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟』をテキストにしたというものがあった。

大部の文庫本で3冊、はじめ学生諸君はうんざりといった表情を浮かべた。
こんなに長い小説をどうやって読み通せるかというのだ。
心配はいらない、 まず1冊目の半分ばかり”イッキ読み”してくれ。ゆっくりと焦らず、大切なのは、あまり間をあけずに集中して読む。そうすると今度は、小説のほうで君たちを引っぱっていってくれるだろう。
読むスピードもおのずとあがっていく。
ちょうど宇宙に飛び出すロケットが、打ち上げのときに強力にエンジンを噴かして上昇するが、大気圏を脱出すれば 無重力状態で運航するように、というわけだ。

実際、ドストエフスキーの字宙を体験した学生たちのなかには、途中から「巻を描く能わず」といった 感じで通読したといった者がいた。

これには、私も納得する。
このように、『本に引っ張られる』という現象は必ず起きるからだ。

本というのは、ある一定の軌道に乗せるまでが大変で、乗ってしまったら後は勝手に私たちを運んでくれるものだ。
吸い込まれるように、吐き出されるように。

このように、軌道に乗せる技術が、『読書レベル』という話になるように思う。
実際には、読書を重ねることでしか、軌道に乗せることはできないし、読書を重ねることによって、軌道に乗せる時間を短縮できるのだ。

ロケットが大気圏を突破できるのも、読書レベルが上がることで、突破できるようになるのだ。

本を読めば読むほどに、読める本のレベルも上がってくると共に、読書の軌道に乗せることができるようになるのだ。


クジラのコケットリー


三島由紀夫は長篇小説の魅力を「鯨のコケットリー」という表現で語った。 長篇小説とは大きな鯨のようなものであり、そのなかでピカッと光るものが、鯨が示すコケットリー、つまり色気である、と。
長篇の全体があらわしている存在感は、作品のディテール(細部)の言葉の喚起する微妙さによって支えられ、保証されているということである。
どんなに深刻なテーマを扱った作品でも、そのディテールには、ふっと一瞬のユーモアがあったり、 異質な感覚が横切ったりする。 そしてその部分は、決してバラバラのものではなく、有機的に長篇の全体につながっている。

三島の言いたいことも理解できる。
大きなクジラというのは、姿かたちが見えているのに、全体がみえない。
途方もない大きさを持っているため、全体を見渡すことはできないが、ピカッと光るコケットリーを見つけることはできる。
つまり、細かく細部にまで目を行き届かせていくことによって、作品の細部の微妙な変化を味わって読むことができるのだ。
深刻な作品は、深刻なままでは終わらないし、フランクな作品は時にはシリアスになる部分が出てくることを味わうことによって、それらが長篇という作品を作り上げていることを実感できるのである。

このように、長篇小説というのは、長いからこその楽しみ方があると説いているのである。


長篇小説のストーリーを忘れる


長篇小説を読み、かなりの歳月を経てもその部分が読者のうちに鮮烈な残像をとどめていることがある。
極端な話、ストーリーを忘れてしまっても、 きらめくようなディテールが宝石のように輝く。
「神は細部に宿りたまう」という言葉があるが、大長篇であればあるほど、ひとつひとつの言葉の力が問われているのだ。

長篇だからこそ、全体が見えないからこそ、細部に目をやり、より細かな部分に注目することによって、心に深く残像として残ることがあるのだ。

ストーリーなどは忘れてしまっても問題ない。
むしろ、ストーリーよりも重要なのは、読むほどにコケットリー、つまり色気を感じていくことなのだ。

どのように色気を感じたのか、という部分を説明できなくてはいけない。
説明…いや、説明などは言語化しなくてもいいのだが、色気を感じたという感覚を覚えていることが重要なのだ。
その鮮烈な残像を、心に残していくのだ。

長篇であるが故、すべてを説明できる必要もなく、そんなことを聞く人も求めない。
聞く人が求めることも、自分自身も答えはひとつ。
『鯨のコケットリー』である。
自分の中に、クジラのコケットリーを持つのだ。

自分の中で『これだ!』というその作品の色気の部分を感じるのだ。

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