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0102_これまでの経験から気付いたこと

幸いにして、今の立場から、教育というものを広い視点から考えることができてきたように感じている。今、思うことは、過去にしがみついていることは未来を作ることはないということである。

過去の栄光やスキルを活用する場面は確かにある。きっとある。でも、今じゃないかもしれない。

それはまだ知らなかったICT端末の活用法を学んだときや、まだ参加したことのないオンライン研修に思い切って参加してみたときや、自分とは歳が離れた先生の授業を見たときや、これからの教育ってどうなるんだろう、ということをふと考えたときに、はっとする瞬間があって、あれ?とこれで良かったんだっけ?自分・・・とおもった時に、過去にしがみついていた自分に気づくのではないだろうか。
〜すべき、〜しなければならない、なんで〜しないの?という疑問ばかり浮かんでくるような時は、あと少しで気付く時だ。そこからもう一歩、踏み込んで考えて、周りを見て、新しい学びを得ることで、さらに気付いていくはずだろう。

そもそも教育に携わってきたのは、なぜだったか。
どんな子供になって欲しいとおもっているのか。
自分の教育観って、このままでいいのかな。
自分って、このままでいいかな。

そんなときがきっとくると思う、そして早くきた方がいい。

わたしにも経験があって

その中のほとんどは失敗であり、わずかながらの良い感触を得た経験もあるのだが、その良かったことに囚われてしまうことがどれだけ危険なのか、としみじみ思うのである。
誰だっていい思い出にひたって安心して生きていたい。また同じことをやればうまくいくという安心感のもと、ぬるま湯につかって楽をしたい。でも楽をするということは学ばないということであり、目の前の子供を見ないということである、これに気が付かない人が多い。

本当に危険なことだと思っている。
実際そういう人がたくさんいて、子供たちは、とても従順な顔をして、さも学んでいますという顔をして黙って座っているが、その胸の中ではいろんなことを考えているのだと思うのだ。だって、面白いと思えば前のめりになるし、目は輝くし、こちらから言わなくたって自ら調べて試して没頭するのだから。それをはたからみるとわかるが、教えることに専念してしまっている教師は見えない、らしい。

子供は黙っている。黙ってきっと頭の中で心の中で

あ〜つまんない、さっきから自分ばっか話ししてきもちいいんだろうね〜

そんなこと検索したらネットですぐわかるのに、10分以上喋っている、時間がもったいないなあ〜

先生の話を聞くより、友達の考えを知りたいんだよね、この端末使えばもっとたくさんの人の考えを知ることができるのに、なんで使うのに許可が必要なんだろう〜

うちに帰って自分で調べたほうが、もっと深いところまで知ることができそうだよな、あのYoutubeでやってたもん、あっちの方がずっとわかりやすく説明してたな〜

いろいろ思っている、そんな顔している、子供たちはもうずっと前から教師より賢くなってしまっているのだから、端末を使う使わないまで、教師の許可が必要だとかあり得ないでしょ、ということが行われてはいないだろうか。なんでも教師主導にしてしまってはいないだろうか。こういうことを考える第三者的な自分を自分の中に持っているだろうか。

子供に学びを委ねる、学びの主体は子供、主体的な学び、など言葉だけは知っていて、意味も大体わかっているのに、それを教室の中で具現化できていないのではないだろうか。

そのために何をすれば良いのか、どうなれば良いのか、わかっていない、納得していない、認めたくない、のではないだろうか。

思い切って、過去の栄光を手放してみよう

そして新しいやり方を取り入れてみよう。それで、子供の反応を見てみよう、もうちょっと続けて試してみよう。気付いたら改善してみよう、またやってみよう。そうしてわかってきたことをもとに、また新しい学びを構築してこうかもしれないという手応えを掴んでみよう。

まずは、わたしがそういう姿を見せていこう。

コロナ禍から、うだうだ考え続けてきたこと

それは、こんなことだったのだろう、実践できるかどうかわからない。伝えることができるかどうかもわからない、伝わるかどうかもわからない、でも、見せていこう。
それくらいしかできない、それだけはできる。そんなことを日々思う。


0103_明日の投稿:

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