見出し画像

地元 大原での独立にこだわる

はじめに

初めまして、京都のkilnというレストランで働いています森 尚平です。
現職場は6月末に退職予定で、今年中に京都で飲食店での開業を考えています。そこで今回は今までの活動、職歴、想いやここにいたるまでの経緯を少しでも多くの方に知っていただきたいと思い自己紹介記事を作ろうと思いました。
もしお時間のある人で興味があれば是非ともご一読いただければ幸いです。

料理をはじめたきっかけ


僕が料理の世界に入ったのは19歳の時でした。その1年前までは高校生活を送っており、『大学に行ってどこかに就職する』というのが当たり前だと思っており自分もそうなるものと思っていました。
もしかしたら他に自分の道があるかも??とぼんやり考え出したのは高校3年生の時です。決して自慢ではないですが、僕の通っていた高校は県内でも有数の進学校でした。毎年現役で京大合格者を40人ほどだしているような学校で、進学クラスから大学に行かなかったのはたぶん僕を入れて5人もいなかったと思います。
もちろんそんな環境で「なにか他の道がないかなぁ〜」とぼんやり考えながらでは勉強に身が入るわけがなく、あっさりと高校は卒業し志望校にも落ち、浪人生となります。
その時に自分の人生を本気で考えるという時間を作りました。今となって考えるとこの時期が自分の人生を左右する分岐路だったと思います。
ぼんやりと考えていた飲食という職業は、14.15歳頃から調理場に入りバリバリやっていないと通用しないプロのみの世界だと思っていましたが、今からでも間に合うか? そう思い、料理人、サービスマンの自伝小説を片っ端から毎日1冊のペースで読み漁りました。
そこで料理人として成功している人の中には19、20歳頃から飲食の世界に入り成功を収めている人がたくさんいることを知り、半年の浪人生活に区切りをつけ、親に相談しました。
「1回きりの人生、自分で好きなことをやりたい」
普段僕は親とはあまり話す方ではないので親に気持ちをしっかりと伝えたく手紙を書いたのを覚えています。
その気持ちを受け取っていただき、半年後、東京の「辻調理師専門学校」に入学することを決めます。関西の人は大抵大阪のあべの校
に入学するのですが、自分は京都でも田舎の出身でしたので、どうせ一人暮らしをしなければいけないのならと思い東京に決めました。
それまでの半年間、半端な料理の知識や技術を身につけるよりはと思い京都駅の「espressamente illy」でバリスタとして働きます。ここではバリスタとして、エスプレッソの知識、技術を学び、何より現場で働くプロとの出会いが大きかったと思います。横山千尋さんというバリスタの方が京都に催事でいらっしゃっていた時に毎日そこに行き色々お話をお伺いしたのを今でも覚えています。その時、人生で初めて、飲食の資格であるIIACの『Espresso Italiano Taster』をとります。また同時に将来フランスに行くことも決めていたので週一でフランス語教室にも通っていました。この時に簡単な文法までは一通り勉強しました。後にフランスに渡ってから大きなアドバンテージとなります。

東京の生活、からのフランス

東京の専門学校に入学してからは日々の授業と並行して掛け持ちで二つのアルバイトをしていました。料理の世界に飛び込んだものの僕がなりたかったのは『ソムリエ』という職業です。まずは料理を勉強して、フランス文化を中心としたヨーロッパの食文化を勉強するため調理師学校に入りました。
この学校を選んだのも進学先としてフランス校があるというのが一番の理由です。
その為選んだアルバイトも二つともワインショップでのアルバイトでした。一つは三鷹にある『やまもと酒店』です。ここではイタリアワインの全州のワインが置いてあり隣に併設しているバーで毎日その日自分が提供するワインを選ばせてもらうという仕事内容です。
もう一つは『エノテカ 吉祥寺店』でした。こちらも2階にバースペースが設けられておりソムリエ試験ででてくるような有名シャトーが毎週末テイスティングできるというところです。
お客様もまったく違う両極端なお店ですがどちらの経験も今の財産です。
FFCCというフランス料理文化センターが主催するサービス人育成カリキュラムにもボランティアとして積極的に参加していました。
1年はあっという間で、翌年はフランス校に進学します。

フランス生活

はじめてのフランス生活です。食文化や人種の違い、周りの空気の違いに直接触れ少しづつ飲食人としての階段を登っている感じがしました。
東京の時との一番の違いは周りの生徒のモチベーションかなと思います。当たり前ですが学費も滞在費も日本の調理師学校よりも高く、その分「自分が料理人としてプロで一番になるぞ!」という野心をもった人がたくさんいたかと思います。僕はサービスとして将来働きたいと思っていたので、その差をより強く感じました。
ただ自分には明確に目標がある、絶対全員を出し抜いてやるぞという気持ちから普段からのフランス語の勉強、毎週末同級生からお金を集めて、そのお金で2万円ほどの予算でワインを買ってきて、プレゼンしながら飲むというのを繰り返していました。
バカンスの時も周りはイタリア旅行やフランス旅行を楽しんでいる中、一人で田舎のワイナリーに泊まり込み朝から晩まで働いていました。これも今となっては本当にいい経験です。6ヶ月の寮生活が終わると残りの6ヶ月は一人一人がフランス各地に散り、研修生活となります。先生にどうしてもワイン産地で働きたいという思いを伝え、僕はボルドーで働かせてもらうことになりました。

はじめての研修生活、転機

この研修生活はほんとにあっという間でした。ボルドーの二つ星レストラン『Le Saint-James』というところでの研修です。毎週休みの日にはボルドー市内まで自転車で30分くらいかけて行ってビストロを巡ったりお菓子を食べるというのを繰り返していました。
研修生活が終わるとフランス校生活も終わり、各地に散っていた生徒が再びリヨンに戻り、そこでフランス校の全てのカリキュラムが終了となります。
その時、1週間ほど僕のレストランは早くに研修が終わったので、今だ!!!と思いパリに向かいました。
どうしてもフランスに残りたい。その気持ちがあったのでホテルに入るとまずミシュランガイドを開き自分の好きなレストランを片っ端からリストアップしました。そして一番上から順番に電話をかけていき「今は学生でもうすぐ日本に帰ります。またフランスに戻ってきて働きたいですがお願いできますか?」と伝えたところなんと一件だけOKの返事がらもらえました。それがパリの二つ星レストラン『タイユヴァン』です。
まだ当時フランス語はカタコト程度でしか話せなかったのでサービスということではなく料理人としての採用です。ここで今まで人生計画をガラっと変えました。
ソムリエとして働きたいと思っていましたが、こんなにいいキャリアを作れるならこのまま料理人として働こうかな??と思いました。この時もまた分岐点だったかなと思います。結局これを機に7年ほどワインの勉強からは遠ざかり料理に没頭する日々が始まります。

タイユヴァンでの勤務

タイユヴァンでの勤務は一言で言うと激務でした。
フランスでの修行というと、今もかもしれませんが日本である程度修行をして基礎を学んでからフランスに行くという流れが一般的でした。ですが僕の場合調理師学校をでてはじめての職場がフランスの二つ星です。学生の時に研修していた時とは訳が違い給料をもらって働いたとたん一気に求められるスピード、正確さ、仲間とのコミュニケーションの質も上がったような気がします。
パリには日本人がたくさんいて、毎週の土日には(土日がレストランが休み)日本人の仲間と一緒にサッカーをしていました。小中高と10年間サッカー部だったのでそれが一番のストレス解消でした。ど田舎に住んで語学力UPした方が良かったかな。。と悩んだりもしましたがその時の出会いも今では宝物です。なのでどちらの方が良かったのかは今でも分かりません。
仕事の方は「アントルメ」というポディションでした。タイユヴァンは調理場が1階、パティシエが働くデセール場が2階と完全に分かれていて、調理場のセクションは「ガルドマンジェ」「アントルメ」「ポワソン」「ビアンド」と大きく4つのポディションに分かれています。さらにその中に一人シェフドパルティという部門シェフがそれぞれ一人、その他はコミと呼ばれるポディションです。
僕の入った「アントルメ」というポディションは暖かい前菜と、魚、肉料理の付け合わせを担当するポディションでした。求められるスピードは高かったでしたが、今思えば隣にビアンドのシェフ、ポワソンの場所があったので監視されやすい場所だったのかなと思います。
タイユヴァンの調理場と他のレストランの調理場との一番の違いは「清潔感」です。掃除は徹底的です。昼営業と夜営業が終わる度に本当に至るところまでピッカピカピカに洗って、拭いて、さらにステンレス専用の磨きをして光が反射するくらいピッカピカにするというのがタイユヴァンの掟でした。
印象的だったルールは3つあって、
一つ目毎週金曜日の朝は誰かがデザートを作って、それとコーヒーを飲みながら仕事をするということ(もちろん大忙しの中ですw)。
二つ目は遅刻をしたらその人が昼営業終わりの掃除を全てやる、というものです。僕も何度か遅刻してしまいましたが普段16人がかりで1.5時間ほどハイスピードでやる掃除をひとりでやるのは本当に、罰です。
三つ目は毎朝8時から仕事スタート、それまでは若手であろうがベテランであろうが調理場に入ることさえできないというものです。ここは日本とは少し違うかなと思います。先輩がくるまでに準備を終わらす!!みたいな習慣よりも時間内に仕事を終わらすことの大事さを学びました。

ビザの期限、帰国

タイユヴァンでの仕事時はワーホリというビザで滞在していました。30歳以下の人が人生で一度だけ1年間使えるビザです。僕は当時もうこのままずっとフランスに住みたい!と思っていましたので労働ビザの切り替えを申請しました。当時タイユヴァンには僕を含め4人の日本人が勤務していました。その4人とも過去タイユヴァンにて労働ビザを申請してもらって通っています。
自分もそのまま労働ビザを申請して通ると思っていました。でもなかなか上手くはいきません。
丁度自分が申請した時は大統領の入れ替わりの時でした。フランスはそういった内情や、役所側の対応する人によって本当にまったく是が非かが変わるという国です。
何度も何度も労働局に通いましたが結局労働ビザはおりませんでした。労働局側からの意見としては
「ある程度の役職を日本から雇い入れるなら分かるが、下っ端のポディションなら日本人を雇う必要性がない」というような内容でした。今思えばそれでも残りたければ他にもたくさん雇ってくれるレストランを探すべきだったのかもしれませんが、僕は日本に戻る決断をしました。

帰国、そして東京「ピエールガニエール」



帰国して働き始めたのはタイユヴァンの時のスーシェフに紹介していただいた「ピエールガニエール」というお店です。パリにも本店がある二つ星レストランです。
赤坂のANAインターコンチネンタルホテルの37階にある高級フレンチです。
ここでは「ビアンド」「ポワソン」「ガルドマンジェ」というポディションがあり僕は「ガルドマンジェ」というポディションに配属になりました。辞める間際にポワソンの付け合わせも担当させていただきましたが、ピエールガニエールで働いたほとんどの期間はこのガルドマンジェです。冷前菜を担当するこのポディションは大抵の場合一番入りたての人が配属されます。

通用しない実力

東京での勤務は本当に何もかもが実力不足でした。調理学校をあがりカタコトでのフランスでの勤務経験も何もかもが全くレベルが違う、本当に力不足でした。毎日シェフに怒られ、ミスが多く今思えばなかなか他に類を見ないダメダメ君でしたw。唯一フランス語が他の人よりも少し話せる、くらいが僕のささいな武器でした。
でもこのレストランのガルドマンジェというポディションは冷前菜ですが、魚も触るし豚や鳥、ジビエなどの肉も触るしいろんな食材に触れる本当に恵まれた環境でした。休みの日はなるべく築地市場や近くのスーパーで魚を買って家で捌くという日々を繰り返しました。1週間魚しか食べなかった週もあります。
自分が担当させてもらった中で印象に残っている料理は二つあって、一つは『コルベールのテリーヌ』です。野鴨の良さを存分に活かしたテリーヌでトリュフによりさらにその味わいが引き立つ、本当に美味しいお皿です。
もう一つは魚にかけるスイカのソースです。スイカジュースとアンチョビ、ケッパーとの組み合わせは同時衝撃を受けた料理でした。

この先どうするか、分岐点

東京で働き始める前にぼんやりとだいたい3年くらいが働く期間かなと思っていました。この3年間というのが僕の今後の一つの区切り時間の基準になってきます。
長く働くことで得られることはたくさんあります。それも一つの選択かと思いますしどちらが正解かは分かりません。
3年間たって、職場を辞める決断をしました。辞めた後は本当に空っぽになり、またここで人生を考え直す時間を作りました。19の浪人生の時、フランスでの就職が決まった時、3度目の分岐点でした。
日々の生活費を稼がないといけなかったのでなるべく時間の融通のきくキャッチのアルバイトをしました。飲食店への呼び込みです。
その間に考えたのは将来何がしたいかです。今までガストロノミーなお店でしか働いたことがなく、漠然と高単価のお店をオープンするのは食器もテーブルも内装もお金がものすごくかかるものと思っていました。
独立を視野に入れると、このままガストロノミーなレストランで働くのではなく地元の京都でワインやサービスなどもう少し包括的な知識、技術を身につけつつ修行するのがいいと思い京都に帰る決断をします。
地元で働きたいと思うきっかけはフランスでの滞在が一番の影響でした。フランスではその土地、その土地の人がその土地に誇りを持って生きている感じがしました。アルザスの人はアルザスが好きだし、ボルドーの人はボルドーが好きだし。僕もフランスにいる時に一番好きな場所が京都の地元 大原なんだと強く感じました。
3.4ヶ月ほどキャッチのアルバイトをした後に京都に帰ります。

人生初のビストロ

京都に戻ってからは働くビストロ探しです。語弊があるかもしれないですが、フランス料理であること、料理、サービス、ワインが包括的に学べるところという点さえ押さえていればどこでも良かったです。
なるべく少人数で回しているところで選んで室町仏光寺の『ビストロC』というお店で働き始めます。
ここは調理場が僕を入れて3人、サービス兼ソムリエが一人、アルバイトスタッフが一人の計5人体制のビストロでした。3階建のビストロで20席、18席、10席の合計約38席ほどの席数です。
このビストロでは本当になんでもやらせてもらいました。今までやってこなかったデザート、パテやリエット、鴨のコンフィといったクラシックなビストロ料理、大皿でシェアするような団体料理などです。
今までとの一番の違いは料理を考えてもいいと言われたところです。働いて半年ほどでデザートを一つ考えて欲しいと言っていただいて、その後はどんどんと料理の提案をさせてもらいました。また同時期に改めて離れていたワインの勉強も再開しました。ソムリエ試験にも合格し目標としていた「包括的な知識、技術の向上」というのは順調に進んでいったかと思います。
1年を過ぎたくらいでシェフ(料理長)から「自分が辞めた後のシェフをお願いしようと思う」と言っていただき、ありがたくその後のシェフとして働かせていただくことになりました。
当時27歳で経験も浅いのにシェフとして働かせていただけたのは本当に幸運でした。今思えば前任のシェフとオーナーの悩みに悩んだ決断だったかなと思います。

初めてのシェフ

初めてお店の料理全てを任されるというのはとても責任を感じていましたし、とりあえずはじめはオリジナリティを出していこうと常に意識していました。普通は豚肉などで作るシャルキュトリーを魚介だけで作った『魚介のシャルキュトリー』オーダーが入ってから生きたオマール海老を裁き、ソースをかけてグラタンにして提供する『オマール海老のテルミドール』などを作りました。
当時『シトロンブレ』というお店が同系列店であり、そちらが肉を主体としたビストロでしたので自分の店では魚介を主体としたメニューにしました。
シェフとなり痛感したことは引き出しの少なさです。季節の移り変わりにより変更しなければいけないメニュー、週に何度も足を運んでくださる常連さんにも対応できる料理のバリエーション、またここでも一つ壁にあたりました。
逆に学んだことはお客様への真摯な姿勢です。フランスや東京で働いていた時は料理に対する徹底的なこだわりを学びました。サービスを全くしてこなかった分、お客様との対話というのは新しい世界でした。
ビストロCは18時からオープン、26時クローズという営業時間でしたが、お客様がいらっしゃればいつまででも灯りがついているような店でした。一番遅い時で日付をまたぎ次の日の7時や8時までいたこともあります。
営業形態としては今思えばかなり無茶な営業でしたが、徹底的にお客様に寄り添うことで得られる信頼もあります。ビストロCで働き京都の同業の方々とも色々交流を深めることができましたし今でもその出会いは続いています。

店の方向転換

ビストロCで働きちょうど3年が過ぎようとしていた時、お店の形態が変わることがオーナーから告げられました。内容は店をチェーン展開していくことを目標にし新たな総括料理長を雇いメニュー監修を入れていくというものでした。
自分が学びたいこと、やりたいこととのギャップを感じた瞬間でした。今思えばシェフとして働いてきたのに、急に上に料理長ができることに納得がいかない、と子供じみた憤りを感じていたと思います。その反面、自分がシェフとなってからオーナーの満足いく売上をだせていなかったので、オーナーの意向も理解できます。僕はビストロCを退職することにしました。

新たな場所

心機一転、新たに職場を探すと同時に、人生にとって大きな一歩を踏み出します。結婚です。ビストロCで働いていた時に出会った女性で、今の妻です。当時は職場が近く妻はOLとして働いていました。今では妻も飲食の世界に入りソムリエの免許も所得し、開店業務を全面的にサポートしてもらっています。人生で最大の出会いであり、自分の人生が自分だけの人生でなくなった瞬間でもありました。将来のことについても今まで以上に計画を練るようになります。

次の職場を選ぶ時の基準として、料理が美味しいのはもちろん、自然派ワインを扱っているというのも条件として設定しました。京都にはエーテルヴァインさんという老舗の自然派ワインショップがあり、そのオーナーにも相談し何個も自然派ワイン専門のお店をリストアップしました。ですが自然派ワインを扱っているお店はスタッフが少ない(京都だけかもしれませんが)。少人数で回しているお店がほとんどでなかなか目当ての場所が見つかりませんでした。
ひとつここで、もしかしたら今独立するのもありじゃないか??と物件を3.4件回っていろいろと見てみました。家賃も安く路面店の物件で丁度良い広さの所も見つかり、契約しようか迷ったのですが、開業計画も練れてなく資金計画も全くできていなく断念しました。今思えば勢いで開業しても良かったかな??という気持ちが反面と、その後出会うプロ意識を持った方々からもらった刺激もあり、当時独立しなくてよかったぁと思う気持ちと半々です。
物件を悩んでいる中、一軒自分が探している条件にピッタリと合うレストランが見つかりました。それが今働いているkilnというお店です。当時29歳、これが自分の独立前の最後の修行先という気持ちでした。3年間働かせてほしいということをお伝えして、雇っていただくことになります。

新天地kiln

kilnというレストランは京都のなかでも少し異質でした。料理もジャンルにとらわれない料理で僕が働き始めた時はシェフがイタリア料理専門の方だったのでイタリアンベースでした。
元々は船越雅代さんという方が立ち上げのシェフ・ディレクターとして活躍されていたところで、こだわりの調理場には雅代さんのエッセンスがぎっちりと詰まっています。
調理場の中にドッシリと聳え立つのは窯です。kilnという店名もこの窯からきています。この窯はピザ窯よりもさらに自由度が高く、炭も薪もなんでも使えるオープンな窯です。まさに自分にとっては料理人としてのスキルアップに最適の場所でした。

働いて1週間くらい経った時に思いがけないことがおきます。シェフの方が間もなく辞められる、ということでした。僕としては「なぜ!?」という気持ちと「これで料理全てできる!ラッキー!」という気持ちと半々でした。
飲食では急に辞めるや飛ぶといった話は珍しくはありません(ここでは割愛させていただきます)。
いずれにせよ働いて2.3ヶ月ほどでまたもや料理長として働かせていただくことになりました。これは僕にとって嬉しい誤算でした。

またkilnでの一番の出会いは自然派ワインです。当時のマネージャーは(今はもう京都で独立されているのですが)自宅の一室を改装してワインセラーを作り、ワインを2000本ほど貯めているという凄まじくストイックな方でした。その方のワインに対する姿勢というか、真剣さは今の僕のワイン熱の基盤となっています。今こうしてワインのことをひたすら発信し続けていられるのもその経験があるからです。
ですがワインを本当に打ち込むように勉強するようになるのはもう2年ほど先です。

二度目のシェフ

シェフという経験が20代のうちに体験できるというのはとてもいい経験でした。
今までのガストロノミーな料理、クラシックなビストロ料理とはまた違い、薪焼き料理はシンプルな素材の味わいを際立たせる料理と思います。薪のエレガントな燻製香は決してどの素材にも合うというわけではなく、その分毎日が学びと発見でした。油やクリーム、癖のある野菜とは相性が比較的良く、
『牡蠣とビーツのクリーム煮』や『グリルした春野菜のパイ包み焼き』、『パプリカのアイス』『燻製マヨネーズ』など全て薪を使った料理ですが今までの調理経験では表現しきれなかった料理です。
同時に開業に向けてワインセラーを購入し、毎月10本ほどコツコツと手に入りにくいワインを集めていくことにしました。2021年5月現在ワインの在庫は250本を超えています。
kilnで働き始めてもう一つの収穫は同年代の同業者との出会いです。RED35という大会を通じて同年代と強く繋がることができ、kilnの7周年記念イベントとして自分含め4人のシェフと企画したコラボディナーは大盛況に終わり、その経験と人脈は大きな収穫となりました。翌年にはさらに大きなイベント(7名のシェフとソムリエ、サービスマンのペアリングディナー)も企画していたのですが、新型コロナウイルス感染拡大防止の為イベントは中止となったのはとても残念ですが、また今後ともそういった心躍るイベントは企画していますので、自分自身に期待しています。

シェフからソムリエ

働き始めて2年が過ぎたあたりから後任のシェフを探し始めます。というのも自分が入った時に従業員が5人いたのですが、その当時は2人で回していました。3年ほどの勤務で退職する旨はオーナーには入社時に伝えていましたが後のことを考え、2人の調理スタッフを招き入れます。丁度良いタイミングで退職を迎える方と巡り会え、入社していただけたのは幸いでした。自分はついにソムリエとしてサービスにまわります。
積極的にワインを通じてお客様とコミュニケーションを図ることを行い、SNSでの発信も力を入れていきました。当初500ほどのフォロワーしかいなかったInstagramも今では3000人ほどフォロワーの数を伸ばすことができました。プライベートな時間もワイナリー見学やワインの勉強会に当ててワインに没頭しました。kilnでは今までは地元の酒屋だけの取引だったものも福岡、千葉、東京、石川、滋賀と5つの酒屋から取り引きを始めワインリストにも幅をもたせました。

ワインと同時にコーヒーの勉強も始めます。元々バリスタとして働いていたこともありコーヒーには精通していたつもりでしたが、ドリップコーヒーはまた別の世界でした。
京都の西院にある『西院ロースティングファクトリー』さんに何度もお邪魔し、産地や豆の特徴、焙煎の仕方など丁寧に教えていただきました。薪火で焙煎したコーヒーもこのとき初めて試しました。
そして現在に至ります。現職場kilnは2021年6月に退職予定です。

開業へ

飲食業として独立するとき一番大事なのは「誰がどこで何をするか」だと思います。この三つの点に繋がりがない、もしくは感じないお店はどうしても違和感を感じてしまいます。

僕が子供の頃が通っていた中学校は、当時同学年が14人、全校生徒が31人と小さな中学校でした。二つ下の学年は6人です。当時でも小さな学校ではありましたが今ではその学校もありません。大原学院と名前をかえ小中合同の一貫校となりました。自分の母校がなくなるという過疎化を目の当たりにした瞬間でした。
自分も大原に住んでいた時は田舎って不便だな、都会で暮らしたいな、と思っていました。仕事ができる、収入のある人は自然と東京に行き人生を謳歌する、田舎暮らしのままの人はどこか諦めてしまった人。みたいな変な固定価値観です。大原は好き、でも大原で働き、過ごすということに夢がないのです。
ですが飲食業に従事するようになり、フランスで働いていた時に一番感じたものは『田舎の誇り』です。ブルゴーニュに行った時に一番感じました。そこにいる人たちはその土地に、仕事に誇りを持っています。フランスの田舎で「パリが一番、都会に住みたい」などと言う人に出会ったことがありません。その光景を見て「大原は世界に誇れる素敵な場所」と遠く離れた地で再確認することができました。
薪焼きフランス料理、自然派ワインを通じて大原で働きたいと思う若い人にも、さらには僕と同じように地元の田舎で開業を考えている人にも夢を与えられるような存在になりたいと思っています。
まず第一歩はお店を繁盛させること。将来の目標は「あのお店で働きたい!」という人を積極的に採用し、コーヒー部門、ワイン部門、料理部門、経営人事部門と雇用の幅を広げ地域の活性化を図ることです。

自分は料理をはじめる19歳の時からずっと地元での独立を夢見てきました。10年越しのこの想い、これからの事業の展望、熱意だけは誰にも負けません。
大原では毎週日曜日の朝市では早朝6時にも関わらず大勢の人で賑わいます。大原が美味しい野菜ができる町、だけではなく薪焼き料理やワインも楽しめる美食の町として成長できるようなお店を目指します。

この記事が参加している募集

自己紹介

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?