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「推し」と「推し活」という言葉に対する嫌悪感についてとりとめのない吐き出し

Twitterではたびたび口にするのだけれど、私個人として昨今の「推し」と「推し活」という言葉がとても苦手でかつ違和感がある。
なんでだろうと思っていたのだけれど、なんとなくが気持ち悪くなってきたので、吐き出してみようと思う。

一言で言うと、「定義が定まっていないから」になるのではないかと思う。
「推し」という定義が定まっていないものに対して、「推し活」として挙げられるものが、特にNHKのあさイチの推し活特集のような「推し活かくあるべき」といった内容だから違和感があるのだ。

ちなみにNHKのあさイチの「推し活特集」の特集名が「推しこそ我が人生」「人生が輝くヒケツ!推しのいる生活のススメ」。

重すぎません!?推しに重きを置きすぎじゃないです!?

さて先日のクローズアップ現代でSHOWROOM前田社長は「推し=水や空気みたいな生活必需品」と表現していた。
これに対して共感する人もいれば共感しない人もいる、当たり前だ。
自分はどちらかというと「生活必需品」というよりは「日用品」の感覚に近くて、更に言うと自分のなかにある「好き」のカテゴリの中の一つ、という感覚なのだ。
自分はアジのなめろうが好きだし、カエルのぬいぐるみが好きだし、有給休暇が好きだし、Hey!Say!JUMPが好き。あくまで他の「好き」と並列なもの。それぞれに「好きレベル」はあるものの、「好き」の円の中に入る。
なので「推しを追う」というのも仰々しいものではなくて、買い物に行く、食事をする、Youtubeを見る、ライブに行く、みたいな「やること」「余暇」カテゴリの中のひとつ、という感覚。

もちろん「推し」という言葉も使う。
「Hey!Say!JUMPが好きだ。推しは有岡くん。」という使い方になる。
(ジャニーズだと「推し」に値する言葉が「担当」になるのだけれど。)
そもそも「〇〇推し」と言い始めたのって自分の体感だとAKBが人気になったあたりだと思ってて、要するに「私はAKBの増田有華ちゃん推しだったの!」「ウマ娘の推しはカレンチャン!」という、One of themのOne的な使い方に近いかなという感覚。

もちろんこの感覚も違うって人はいるし、また違う概念という人もいるのは当たり前で。
でもその当たり前に感覚が違うことを近年「推し活」という新カテゴリを作って当てはめているから自分の中で違和感が生じているのだ。

例えば前書いたようなJUMPを布教するテキストに関しても、「推し活」みたいなキラキラした言葉ではなく、「書きたいから書いているのであって」といったふわっとした動機(と仕事からの現実逃避)なので一緒にされると違和感がある。
「推しをみんなに知ってほしい!!」というのも少しはあるのだけれど、この行動を例えば「推し活特集」で組まれたときには、なんとなく同人誌を勝手に紹介されたようなそんな歯がゆさともどかしさが出てくる。変な話、「みんなに見てほしいこの気持ち」なのだけど「いやでもそこまでパブリックにはしたくないです・・・」という。

さて、「推し」といえば「推しが武道館に行ったら死ぬ」というマンガが有名だと思うのですが、私はこのマンガを楽しく読んでます。
なぜなら主人公のえりぴよの「推し」は「推し」である舞菜に対しての「推す」行動だから。えりぴよは舞菜に会いたいからチェキ券を買うし、舞菜が日本中に見つかってほしいからドアストッパーを買う。For 舞菜、To 舞菜。

なのでよく「推し活」の(極端かもしれないけれど)例として出てくる「推しの誕生日に寄付をした」「推しのドラマのガイドブックを作って自治体に協力した」といったことや、SNSでよく見るビルボードハック方法の周知とかそういうことを見てしまうと、やはりなんとなくキラキラを感じるとともに、「愛」のベクトルが本当に「推し」に行っているのかというのがほんのり疑問に思ってしまうのだ。
いや、それは確実に「推し」に向かっているのだけど、結局は自己満足だったり、1番人気の彼を推しているとか、そういう自分をいい感じに見せるための行動にも見えるんですよね。

穿った考えですよね、ええ、古い人間なので。

だから早く「推し活」なんて言葉は廃れてほしい。「活」にしなくても、自分が好きなものを(法に則った方法で)好きなような熱量で推していける、それを後ろ指指されない世の中になってほしいものなのです。

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