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虐待の原因は道徳教育の不足か?それとも構造か?


1.介護施設等での虐待件数は増加傾向

 2022年度「高齢者虐待の防止、高齢者の養護者に対する支援等に関する法律」に基づく対応状況等に関する調査結果(以下「2022年度調査」と略します。)よりますと、2022年度に虐待認定されたケースは856件で対前年度より15.8%の増加となっております。また、虐待件数の21.3%が、当該施設等において過去にも虐待があった施設だといいます。
⇒ https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000196989_00025.html

2.虐待原因は教育不足か?

 なぜ、介護施設等の介護現場でabuse又は虐待が起こってしまうのか。
 虐待をした職員の個人的な能力や良心に問題があるのでしょうか。

 介護業界では虐待の原因は教育不足であるという言説げんせつ流布るふしています。
 「2022年度調査」でも虐待の発生原因の第一位は「教育・知識・介護技術等に関する問題」が480件と56.1%を占め、第二位の「職員のストレスや感情コントロールの問題 」197件 23.0%を大きく引き離しております。
 以下に虐待の発生原因を示します。

No1. 教育・知識・介護技術等に関する問題 480件 56.1%
No2. 職員のストレスや感情コントロールの問題 197件 23.0%
No3. 虐待を助長する組織風土や職員間の関係の悪さ、管理体制等 193件 22.5%
No4. 倫理観や理念の欠如 153件 17.9%
No5. 人員不足や人員配置の問題及び関連する多忙さ 99件 11.6%
No6. 虐待を行った職員の性格や資質の問題 85件 9.9%
No7. その他 30件 3.5%

 これらの7つの発生原因のうち、No1,No2,No4,No6の4項目は虐待した職員個人の問題で、N3,No5の2項目が組織管理及び人員配置の問題ということでしょう。
 ここから、虐待の原因が職員の個人的な問題とされがちであることがわかります。ですから、個々人を教育することによって虐待が防げると考えられているのです。

3.日本の道徳教育

 私は虐待の発生原因を構造的に捉えずに、職員個々人の道徳や倫理に負わすのは、日本の道徳教育の結果、成果?だと疑っております。

 ちゅちょるさんは、小学校の教育指導要領を基に、[公正・公平・社会正義]という価値に関する道徳教育の内容を次のようにまとめております。

 小学校の道徳教育において「公正・公平・社会正義」の各学年の学習内容は次のとおりです。
 
〔第一学年及び第二学年〕
 自分の好き嫌いにとらわれないで接すること。
〔第三学年及び第四学年〕
 誰に対しても分け隔てせず、公正・公平な態度で接すること。
〔第五学年及び第六学年〕
 誰に対しても差別をすることや偏見をもつことなく、公正・公平な態度で接し、正義の実現に努めること。

 以上の学習内容を踏まえて、朱喜哲さんは、道徳教育の問題点を次のように指摘しています。

「指導要領では、「公正・公平」は態度にかかる形容詞でした。つまり、たんなる心もちに留まらず、さらに(それを理由として)「偏見や差別を許さない」というふるまいができるように、ということが教育としてめざされています。」 つまり、「あくまで個人の内面、主観的な動機と、その発露としての個々人の行動が問題になっているのです。」
 
「なんらかの個人の道徳や倫理観(「人として行うべき道筋」)なるものが先にあって、それが、社会という単位に拡張されたものだという理路になっています。」
 
「社会正義という公共的で政治的な関心事の成立が、わたしたち個々人の能力や良心の問題にされてしまってる。」
 
『これは「公正・公平」のような公共的な理念を、個々人の私的な道徳観に直結させて語ってしまうことの、わかりやすい落とし穴だと思います。』

(引用:朱喜哲2023「<公正(フェアネス)>を乗りこなす 正義の反対は別の正義か」太郎次郎社エディタスp60,61,62,p64)

 ようするに、日本の教育では正義とか公正・公平のような公共的な理念の実践を私的な道徳観に直結させ、個々人の責任に帰すべきことだと教えてきたわけです。
 このような教育の結果、虐待についても、個々人の道徳、倫理のせいにする思考にとらわれやすくなっているのです。そして際限のない教育ループ(同じ処理を繰り返し実行する構造)にはまりやすくなっていると思うのです。

4.虐待は構造的問題

 確かに、個人の悪意から始まる虐待もあるかもしれませんが、基本的には、職員の多くは善意の人です。善意の人が何故、虐待を行ってしまうのかが問題なのです。

 私は介護施設における虐待には次のような構造的問題が潜んでいると思っています。

① 介護関係の非対称性

 そもそも、介護される者と介護する者の関係は非対称で、圧倒的に介護者が強者で、入居者を抑圧する可能性がある構造になっています。


panopticon;一望監視施設

② パノプティコン(panopticon;一望監視施設)

 パノプティコン(panopticon;一望監視施設)とは、イギリスの思想家ジェレミ・ベンサム (Jeremy Bentham)が考案した監視塔から監獄のすべての部分が見えるように造られた円形の刑務所施設のことです。
 ミシェル・フーコー(Michel Foucault)が『監獄の誕生 監視と処罰』(田村俶訳、新潮社、1977年)において、近代管理システムの起源として紹介したことで知られています。
 パノプティコンの特徴は、獄房に収監された囚人がいつ看守に監視されているか、いないのか分からないままに、すべての方向から監視されているという構造になっていることです。

 このパノプティコン的構造は介護施設も見られます。パノプティコンとしての介護施設では次のようなことが生起しているのです。

・介護される者(お年寄り)は介護する者(職員)から自身の生活を覗かれ、介入され続ける。
・介護する者(職員)は介護される者(お年寄り)から自身の生活を覗かれることなく、介入されることがない。
・介護される者(お年寄り)はこの施設からいつになったら出られるかわからない(刑期が不明)。
 
 介護の世界では、監視を「見守り」と言います。「見守り」はお年寄りの安全のために行っているので、監視ではないと思われるかもしれませんが、言い換えたところで、構造的には監視以外の何ものでもないと思います。
 見守りとは「パターナリティックな監視」、「優しい気持ちで行う監視」に他なりません。
 パノプティコン的介護施設では絶対的な強者である介護者が主体であるべきお年寄りを監視対象、規律訓練、生政治の対象とし客体化してしまい、その主体性をないがしろにしてしまう構造があるのです。

③ 業務計画至上主義

 介護施設において、業務日課を効率的に速やかに遂行することを至上価値とする考え方を業務計画至上主義と私は呼んでいます。
 この業務計画至上主義に染まった介護施設では、業務遂行の邪魔になる入居者の訴えを蔑ろにし、その存在自体を邪魔者扱いする動機・構造となっているのです。

④ パターナリズム(paternalism:温情的父権主義、温情的庇護主義)

 さらに、これらの情況を正当化するのがパターナリズムです。職員は全てお年寄りのためだと思い込んでしまっています。職員は善意に溢れているのです。
 パターナリズムにより職員は入居者を庇護すべき存在として子供扱いするようになります。
 子供扱いするということは、相手の話、訴えに真摯しんしに向き合わないことになりがちです(「子供の言っていることだ、適当にあしらっておけ。放っておけ。」)。
 そして、相手の話、訴えを無視し、その人間としての存在を無視し、やがては、ネグレクト(neglect;放置)、abuse、虐待につながっていくのです。

 このような複合的構造・情況の中で職員の個人的要因(疲労、ストレス、イライラ)等により、ネグレクト、abuse、言葉による暴力、そして身体的暴力へと虐待がエスカレーションしていくことになります。

 まずは、虐待を職員個々人の問題にせず、関係の非対称性、パノプティコン的構造、業務計画至上主義、パターナリズム等々の構造的問題への取組が虐待防止の上で最も大切なことだと思います。 


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