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客観的に自分の感情をはかる

おはようございます、こんにちは、こんばんは、SyncBody代表三田です。

今回は「三田の感情のコントロール論」というテーマでお話しします。
(マジでなにもためにならない話なので、ここでソッと閉じてください)

扱う感情ですが「喜怒哀楽」この4つに絞ろうかと思います。

「感情」ってあげようと思ったら、いくらでもあると思うんですが

それだとキリがないので

まずはこの基本の4つ。
もしこんな感情の場合はどうですかー?なんてあればご連絡ください。

しっかりお答えします。

僕の場合、大前提として、あまり感情が表に出ないと思っています。

僕が「楽しい」ときはめちゃくちゃ分かりやすいって言われますね。

ずーっとニコニコ笑ってるらしいです。
(しっかり感情が表に出てるじゃん)

でも自分では笑ってるつもりがなく、つい出てしまうくらいの表情なので
本当に心の底から楽しんでいるんだと思います。

ただ、めちゃくちゃ楽しいのに、表情や行動に出ないことも多々あります。

なので、周りの人に「楽しかった?」「楽しくない?」と声をかけてもらうことも。

そんなときは、あれです。
何かに没頭している小学生男児だと思ってください!
(いま何歳だよ)

集中力マックスで取り組んでいるので、心はウッキウキですが、
エネルギーが外側の表情を作り上げるまで回ってないんです。

なので表情が読めないときは、
内側で大忙しか、もしくは単にぼーっと何も考えていないときです。

この喜ぶって感情が多分一番長続きしない感情なのかな。

一通り喜んだら、すぐ次って切り替わっちゃうんです。

それはまた「喜びたい」から。

ジェットコースターの落ちる瞬間というか
観覧車のてっぺんというか
タワテラの落ちる瞬間というか

また感じたいって思う感情ですかね。

この感情は、普段ほぼ出ない感情です。
なぜなら疲れるからです。ただ「怒る演技」をすることはあります。

疲れるとわかっていることから逃げる傾向にあるのが僕。

ただ例外的に怒ることがあります。

それは、僕の周りの大切な人が
・傷つけられたり
・侮辱されたり
・見下されたり
・落とし込まれたり

という場面、人物には異様に「怒」が出ます。

本気で息の根を止めてやろうかって思ったこともあります。
生理学の成績はAでしたので・・・任せてください。

ただ、自分に対して
・傷つけられたり
・侮辱されたり
・見下されたり
・落とし込まれたり

っていう人や場面に出くわしても、なんとも思わないんですね。
基本無視するか、怒る「演技」をすることは稀にあるかなぁ。

きました。ここデカいのよ。
「哀」って「かなしい」とか「あわれ」って読みますが
基本的には心が痛んだりしている状態ですね。

まぁこれも僕はややこしいんですが
基本的に人に対して心を痛めるってあんまりないんです。

「受容」はするけど「同情」はしない

なぜなら大体の場合、本人の方がもっと傷ついてるし、
自分が哀れんだところで何も解決しないから。

ただ心を痛めてるときの孤独感は半端ないし
そんな時の「受容」って「すごいキズぐすり」か「ベホマズン」ばりの効果があるので本人の感情や気持ちは一旦受け取ります。

人って受け止めてくれる人がいるって分かる
意外と冷静に考えられますしね。

でも、もらい泣き?何それ?って感じです笑
「どうしよう?」とかも思わない。

本人が向き合わない限り、何も変わらないので、
そこに付き合うだけの時間と心情を絶えず変化させる体力は僕は持ち合わせていません。

僕が人さまを助けられる、なんて微塵も思ったことはない。
それができるのは「神様」と「本人」だけ。

それこそ、僕が諦めた人。
「この先この人とは関わらないだろうなぁ」って思った人は
音速で見切りをつけて放置します。


冷たい人・・・
思いやりにかけた人・・・
サイコパス・・・

まぁ色んな言葉でなじられたりはしましたけど笑。

だから逆に「同情できる」とか「人の気持ちになりきれる」って本当素敵な才能だなと。

さて、ここからが本番。
ここまでは全て前置きです。(なげぇよ笑)

自分に対しての「哀」

これがねーめちゃくちゃあるんです。

基本的に「よりベター」を考えているので
より良い選択、行動をできない自分のことが好きではないんです。

「あのときこうすれば良かった」
「こっちの言い回しの方が良かった」
「自分はこうしたいけど、現状を考えると他にやることあるよね」
「失うことの代償の方が大きいから、今は大人しくしておこう」
etc…etc…

そんな感じです。
仕事も人付き合いも日常生活も。

絶えず「分析」して「仮説」「検証」してそして「自己嫌悪になる」

でもね、そんな時に欲しいのって
アドバイスとか答えとかじゃなくて、

「受容」なんですよね。さっきも話しましたが笑。
僕が凹んでるときは「結果オーライだよ」「今この時にはベストな選択ができたと思わない?」でいいんです。

面白いのが、これ人に対してはスッと言えるんですよね。
「現状を考えたらベストを尽くせたんじゃない?」
「同じような機会があったら、今度はうまくできるね」
みたいな

ただ、自分事になるとそうはいかない。

僕は自己嫌悪になると、全て止まっちゃうんです。

そんな時、また前に進むために人に背中を押してもらいたいな、って思うことがある。

だから、人に会ってただ話すだけ、ただ時間を共有するだけで、自分はまだ地球上で過ごしていいんだって思う。

人に受け止められると、安心感がある。
だから僕も人を受け止める。

みたいなところはあるので。

例えば、
「喜」「怒」「哀」「楽」を含めて人に感情をぶつけられた時にこう思うんです。

「どうしてその感情に至ったのだろう?」と、ここでも分析が始まるわけですね!(めんどい男です)

「喜」「楽」という感情なら「もっと喜んでもらうには?」「これからも楽しんでもらうには?」なんて思うし

「怒」「哀」という感情なら本人にも負担になるだろうし
今後の参考のためにもどうしたら防ぐことができたのか?を考えます。

だって、いきなり怒ったり、心を痛めたりすることってないじゃないですか?(不慮の事故などを除いて)

自分でも気にならないレベルの小さなことの積み重ねがある時、ドーンッ!って出る。

本人が気づかないことは意外と周りの人の方が気がついたりします。

多分怒る方は怒りたくて怒ってるんですよね。

僕もね、20代前半の頃はそれはもうたくさんの地雷をかかえてました。瞬間湯沸かし器みたいな笑笑
もう周りに当たり散らすは心ない言葉を浴びせるわ、で。

でも気づいたんですよね。
「地雷を踏まれる」ことで自分の存在意義を見出している。ってことに。

「地雷を踏んでしまった」と慌てふためいている人って「地雷を踏まないように気をつけて過ごそう」って思うはずだって思ってたんです。

そうやって人を繋ぎ止めているつもりでいた。「ここが自分のテリトリーだ!」ばりに。

そして、離れていく人も多くいた。

そこからです。なんで地雷が地雷になったのか。
地雷はなくならないけど、不発にするためにはどう向き合うか。

時間をかけてやりましたね。
嘘です、半年くらいでどうにかなりました。

ただ今もですけど、僕の場合、メンタルが食欲に出るので、
当時は身長173cmで体重が60キロから52キロに減るとか、モデルもびっくりな体型でしたよ笑
(全て止まるってそういうこと)

先ほどの怒ると疲れちゃうって、こういう経験もまるっと含めてなんです。
怒った直後だけでなく、
愚かな自分を思い出して疲れてしまうっていうのがあるから。


今では離れていった人に感謝してます。
彼らが離れたからこそ、
自分の未熟さ、愚かさに気づけたので。
あのまま誰か一人でも情けをかけて僕と関わり続けていたら
僕は地雷原のように、ティファールの電気ケトルのように今も生活していたことでしょう。

自分から望めば、少なからず我慢というのを人間はできる生き物なんです。

僕が冒頭で

僕が人さまを助けられる、なんて微塵も思ったことはない。
それができるのは「神様」と「本人」だけ。

と言った理由はこのような実体験からきています。

ただ、

当時の僕は我慢することよりも当たり散らすことに「メリット」を感じていた。


心を痛めるっていうのも多分「地雷を踏むこと」に似てるんですよね。
心を痛めることで、自分に有利に働くから哀しむ。

「心優しい人」って思われたいんじゃない?
「この人は味方」って思われたいんじゃない?

ただ、はっきり分かったことは
自分のネガティブな感情一つで人様をどうにかしようなんて、無理な話で。

ポジティブな感情が「人の心」を動かせるって思う。

そんなこんなで自分への「愛」ではなく「哀」で生きてるなーって
今このnoteを書いてて気づいたので、やっぱりoutputって大事。

自分がどう愛されるかは、相手が決めること
自分が自分を愛することがまず大事だね、

長文駄文失礼しました。


僕はこんな人間です。

今後ともよろしくお願いします。


生涯修行。

令和3年8月21日
三田貴史

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