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源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか-音楽美学と心の哲学-』読書ノート③

悲しい曲

源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか-音楽美学と心の哲学-』

これまでのまとめはこちら。


第3章 「美しい音楽」の客観性

本章では、客観主義をめぐる現代の論争を概説していく。


正しい美的経験の条件


エディ・ゼマッハ(美的性質の実在論)


主観主義への批判:「仮に主観主義のいうように美的判断がすべて主観的な感想であり、正しくも誤ってもいないものであるなら、われわれは美的用語の使用法を他者から学ぶことができないはずだ」


もし、「ダイナミック」「くどい」と言った美的述語が指しているものが他人と共有できないような「自分にのみ感じられる印象」であるなら、美的述語の使用方法を他者から学ぶことはできない。しかし、われわれはある程度、美的述語の使用法を共有している。むしろ、使用法を共有しているからこそ、ある曲にどの美的述語を適用するべきかについて言い争いが起きているのではないか。


また、ゼマッハは美的判断が現実には相違が多いことを客観主義の枠内で説明するために、「標準的観察条件standard observation condition」という考え方を導入する。これは、適切な美的判断を下すためには適切な観察条件を満たさなければならない、ということである。対象を経験するための諸条件が揃っていなければ、正しい判断はできない、ということだ(色を知覚するためには適切な照明がなければならないし、視覚に異常があってはならないし、対象に注意を向けてなくてはならない)。


この標準的観察条件の他にも、美的判断には満たすべきさらなる条件がある。偏見を持っていない、適切な知識を持っている、適切な感受性を獲得している、といったものである。これを考慮すればわかるように、単なる知覚的判断よりも、美的判断のための条件は満たすことが難しい。


以上のような条件から、美的判断の相違は一致しない判断を下した主体のうち少なくとも片方が必要な条件を満たしておらず、誤った判断を下しているために生じる、ということになる(もしくは両方が誤っている)。


ケンダル・ウォルトン(美的性質の実在論)


適切な美的判断を持つためには、適切な知識がなければならない。このような知識と知覚の関わりは、ケンダル・ウォルトンの「芸術のカテゴリー」によって注目を集められるようになった。


ウォルトンの議論の最初のポイントは、美的性質が依存するとされる非美的性質に、「知覚的カテゴリー」を加える、というものだ。この知覚的カテゴリーの例としては、絵画、キュビズム絵画、ゴシック建築、古典的ソナタ、セザンヌスタイル、後期ベートーヴェンスタイルなどがあげられる。作品の様式、と言い換えてもいいかもしれない。そして、この知覚的カテゴリーは作品を知覚したときに分類されるものであって、作品の歴史的事実というそれ自体は知覚できないものによっては分類されない。


こうした、知覚的カテゴリーは、作品が持つ部分の知覚に影響を与える。


作品がもつある部分に変化がなくとも、それを知覚するカテゴリーが変われば、その部分が標準的なものとして知覚されるか、それとも半標準的なものとして知覚されるか、また可変的なものとして知覚されるかが変わってくるのであるp.49


そして、この標準的特徴とは、それがあることで問題となっているカテゴリーに属する度合いが上がるものでる。
つまり、美的性質は非美的性質(要素)だけでなく、知覚的カテゴリーによって変化する標準的、反標準的、可変的という特徴にも依存していると考えられる。


では、ある対象が属する「正しいカテゴリー」というものはあるのだろうか。
ウォルトンによれば、正しいカテゴライズの基準は以下の4つである。


①標準的とみなされる特徴をなるべく多くし、反標準的とみなされる特徴をなるべく少なくするカテゴライズ。
②作品をより興味深くし、鑑賞によって得られる美的な快をより増やすようなカテゴライズ。
③製作者が意図したカテゴリーへのカテゴライズ。
④作品が制作された社会で認められているカテゴリーへのカテゴライズ。


③、④については作品の歴史的要因であり、対象を鑑賞しているときに直接知覚できるものではないが、それらはカテゴライズの正しさを決定することを通して、作品がどのような美的性質を持つかに寄与している。


このことから、ある対象の美的性質には歴史的要因に依存するものがある、と言える。ここから、関連する歴史事実を知らない人は、誤った判断をしてしまうということが言えるだろう。


なぜ評価が必要なのか


アラン・ゴールドマン(美的性質の反実在論)


アラン・ゴールドマンはゼマッハに対して批判を行っている。ゼマッハの見解では、美的経験の評価的側面の扱いが不十分だ、という。


美的性質の経験には、ポジティヴ、ネガティヴ両方の評価が関わる。しかし、ゼマッハの「標準的観察条件」では、美的判断に特有の評価的要素を取りこぼしており、また、評価に関わる感受性の洗練について十分に扱われていない、とゴールドマンは批判する。


評価を強調するゴールドマンは、美的性質は特定の感受性を持った鑑賞者に評価を引き起こす性質であると主張する。さらに、その感受性は複数あり、異なる感受性を持つ鑑賞者の間では美的判断が食い違うことがありえると述べる。


ジャズ愛好家とクラシック愛好家では、ある曲の評価が異なるだろう。それは、両者が異なる感受性を持っており、異なる感受性で曲を評価しているからだ。そして、ゴールドマンは、このような相違は「理想的鑑賞者ideal critics」の間でも起こりうると述べる。


「理想的鑑賞者」とは、美的性質を正しく経験するための条件をすべて満たしていると想定される主体のことである。そして、この理想的鑑賞者も、ジャズ愛好家にとっての理想的鑑賞者とクラシック愛好家にとっての理想的鑑賞者のあいだでは相違が生じるだろう、ということだ(そしてその間の相違は「解消不可能」ということになる)。


そして、このことから、どちらの美的性質も対象そのものの性質ではない、ということになる。むしろ、美的性質は、鑑賞者の感受性に依存して経験の側に生じる性質であり、実在するものではない(反実在論)と考えられる。


だが、ゴールドマンは、このような相違を認めても、まだ客観主義を維持できると述べる。なぜなら、美的判断は感受性グループに相対的な正しさを問えると主張する余地があるからだ。客観的、間主観的に正しいとされる美的判断と誤っているとされるう美的判断が区別可能になる(実のところその相違は解消不可能なのか議論する余地はあるが)のである。


ジェロルド・レヴィンソン(美的性質の実在論)


レヴィンソンもゴールドマンと同じく、美的経験の評価的側面を重視した議論を行っている。


レヴィンソンもゼマッハと同じく、美的述語の使用法を強調する。ある曲(例としてはバッハのチェンバロ協奏曲が挙げられている)を聴き、「荘厳だ」と判断した人と、「堅苦しい」と判断した人がいるとする。両者は判断が食い違っている。しかし、このような相違があったとしても、互いに「荘厳」「堅苦しい」という述語を適用したことは理解できるだろう。そしてその曲は「快活で明朗」ではないということも共通の理解となっているだろう。


つまり、美的述語の適用が厳密に一致していなくとも、適用を一定の範囲に制限するような対象の「美的な知覚印象」が存在する。美的判断は好き勝手に下せるものではなく、ある程度は対象の美的な知覚的現れによって決まるということだ。


さらにレヴィンソンは美的判断の相違を説明するために、美的経験を記述的側面と評価的側面に分ける。記述的側面は対象がもつ美的性質が反映された美的な知覚印象であり、美的性質が正しく捉えられていれば正しく、捉え損ねると誤っていることになる。そして評価的側面は、記述的側面に対する個人的な評価であり、こちらは正誤を問えないかもしれない。


このことから、先ほどの二人の意見の相違は、記述的内容は一致していたが、個人的な評価は異なっていたため、美的判断が異なってしまった、ということになる。しかし記述的内容は一致しているため、お互いの評価については理解し合えるのである。


ここからわかるように、記述的側面において、誤った美的判断が生じる余地がある。ところで判断の相違は同じ対象についての判断のあいだで生じるものでなければならないだろう。とすると、美的判断の相違が起こるためには、食い違った判断が向けられる共通の基盤が必要とされることになる。そして、その共通の基盤が、美的性質を捉える知覚印象だという。


ある曲が「けばけばしい」というとき、「けばけばしさ」という美的な知覚印象、つまり知覚されている美的性質は、評価から中立的である。ある人にとっては、「けばけばしい」からけなす一方で、ある人にとっては「けばけばしい」から称賛することもあるだろう。


レヴィンソンはこのようにして、美的判断には解消不可能な相違があるという可能性を認めつつも、その記述的側面は正誤が問えると主張し、客観主義を擁護している。


ジョン・ベンダー


レヴィンソンに対してベンダーは次のように批判する。「レヴィンソンが言う知覚印象は本当に美的なものか」と。


レヴィンソンがあげていた知覚印象が美的なものとは限らない。と言うのも、色や形といった非美的性質の知覚印象でも、食い違う判断の共通の基盤となるからである。


とはいえ、この両者の論争は知覚印象が美的なものであるかどうかをどちらが証明すべきなのかと言った立証責任の押し付け合い、直観のぶつけ合いになっているように見える、と著者はいう。


そしてここであえて著者はレヴィンソンの客観主義に疑問を述べる。


評価と行為


一般的に言って、評価、つまり価値性質に対する反応には、一定の行為を促すと言う側面がある。だが、行為が促されると言う側面は、知覚にあるのだろうか。特定の知覚経験を持つことで特定の行為が促されることはあるのだろうか。むしろ、知覚は行為を促すものではなく、情報取得の働きだと考えられるかもしれない。そして、評価は、その情報を得る手段である知覚の後に生じる心の働きだと考えられる。


では、そのような行為を促す評価的側面はどのような過程で生じているのだろうか。


それは「情動」だ、と本書では主張される。


次章では、この情動とは何かを説明し、そこで説明された情動の特徴を用いて、美的経験の情動主義を取る利点について説明される。


おそれいります、がんばります。