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源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか-音楽美学と心の哲学-』読書ノート①

前回書いたように、自分の音楽観に自覚的になるためには、これまでに論じられてきた「音楽とは何か」への答えを知り、自分の音楽観がどのような立場に属するのかを知る、という方法が挙げられるだろう。音楽の哲学について知る、ということだ。

音楽については古今東西様々な場面で論じられている。音楽、と言っても西洋音楽なのかクラシック音楽なのか、古代の音楽なのか民族音楽なのか、その種類は多種多様だ。音楽に関わる営みは全て音楽であるという、クリストファー・スモールの「musicking」という包括的な概念もある。それらを全て網羅するのは手に余る。

今回は、源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか-音楽美学と心の哲学』を要約しつつ、学校教育の鑑賞領域に役立ちそうな論をピックアップして取り上げていきたい。

悲しい曲

源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか-音楽美学と心の哲学』


第1章 音楽美学と心の哲学

本書は、心の哲学の観点を用いて音楽美学の問題に取り組んでいるという点に特徴がある。音楽を聴く経験は、心の働き、状態の一つであるため、心についての哲学的考察で得られた成果を利用して聴取経験を明らかにしようとする方針は真っ当なアプローチと言えるだろう。

問題となる聴取経験

本書で、取り扱われる聴取経験とは、音の配列としての音楽の経験のことである。つまり、歌詞の内容や言葉で語られた内容の理解を踏まえて行う鑑賞ではない。
とはいえ、歌詞との関係で音楽を考察する際にも、歌詞の考察と音の配列の考察を区別して行い、それを組み合わせる必要があるだろう。本書によって、後者の考察を与えることは可能である。 また、本書が扱う聴取経験は一般的なものである。言い換えれば、特定の曲を聴いたときに特有の聴取経験を扱うわけではない
この方針には、次のような疑問が浮かぶかもしれない。つまり、「個別の曲の分析を抜きにして、聴取経験を分析できるのか」という疑問だ。言い換えれば、時代や文化が異なれば全く異なった音楽が作られ、それに応じて、曲を聴く経験も全く違うものになるのではないか、という疑問である。 この疑問について著者は、個別の曲やジャンルを踏まえなければ聴取経験を分析できないわけではない、という。そしてその理由を「情動」に求める。

情動とのアナロジー

例えば、「怒り」という情動を考えてみる。何が怒りを引き起こすかは、何に価値を置いているかに左右される。そして何に価値を置いているかは、その人が属する環境、時代、地域、共同体の価値観にも左右される。つまり、価値体系の違いによって、怒りを持つ場面も変わってくる。とはいえ、文化や環境が違っても「怒り」という情動は誰にでも生じる。「怒り」という状態は共通のものなのだ。では、その状態とはどのようなものだろうか。

このように、心の状態について考察するためには、

①価値体系などの個別性

②心の状態の共通性

を区別して考察する必要がある。
そして、音楽を聴く経験もまた心の状態といえる。このことから、聴取経験も個別性共通性に焦点を当てたものに区別できるといえるだろう。

聴取経験の共通性に焦点を当てた問いは、「曲を聴いて感動するためには、どういった仕組みが人間に備わっていなければならないのか」というものである。これには特定の曲や時代区分を考慮する必要はない。時代や地域が変わっても、なんらかの曲に感動するという点は人間に共通のことだからだ。共通の聴取経験を理解するためには、それぞれの文化的背景はいったん脇に置く必要がある。 個別性に焦点を当てた問いは、「ある人が特定の曲に感動するとはどういう状態なのか」というものだ。これには先ほど脇においた文化的背景や時代背景等について考慮しなければならないだろう。
このように聴取経験を2つに大別した上で、本書が焦点を合わせるのは、共通性の問いである。

概念分析と心の分析

音楽聴取を考えるさい、現代人が「音楽music」という語で理解しているものは、西洋音楽だけではないか、という疑問が出てくる。それぞれの文化で「聴取」という言葉が表す概念は違うはずだ。であれば、人間に共通の「音楽」の「聴取経験」が存在するというのは間違っているのではないか。特定の文化で作られた音楽という概念を、他の文化圏に押し付けると言った「西洋中心主義」と非難される方針にはなりはしないか。

このような疑問について、著者はフランスのラスコー洞窟にある壁画を例にあげて答える。

確かに、2万年前これを書いたクロマニョン人は現代の「絵」という概念と同じような概念を持っていなかっただろう。だからといってそれに「音楽」「ダンス」「彫刻」といった概念を用いるのは適切ではなく、「絵」という概念を用いるのが最も適していると言えるだろう。なぜなら 、その壁画は現代の「絵」概念の適用を促すような要素(色や形の配列で何かを視覚的に再現する要素)があり、「音楽」「ダンス」「彫刻」のような概念を適用できる要素はないからだ。だからこそ、現代人もこれを「絵」として理解しようとする。

また、壁画を生み出した心の状態にも同じことが言える。それは確かに現代人の「絵を描く」時の心の状態と完全に一致はしないだろうが、それでも、「描く」という概念を適用することで、当時のクロマニョン人の心の状態をある程度理解できるようになる。

確かに、特定の時代・地域の人が持っていた心の状態及びその所産を指す言葉や概念は、他の時代・地域の特定の人が持っていた心の状態及びその所産とは完全に一致しないかもしれないが、前者と後者の心の状態には二つを同じ種類の活動・所産として概念的に分類する共通の要素があると考えられる。

そして、それと同じことが音楽にも言える。だからこそ、個別の曲やジャンルを踏まえなくとも、聴取経験について分析できると言えるのである。

そして、繰り返すが本書が焦点を合わせるのは、「共通性の問い」である。

続く第2章では、美的判断/経験は主観的なものか客観的なものか、という点について考えていくことになる。


おそれいります、がんばります。