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読書メモ|戦争広告代理店 〈PR倫理編〉

note574ぺーじ。

「ドキュメント 戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争」を読んだメモ。

1990年代はじめから半ばまで続いたボスニア紛争。バルカン半島のボスニア・ヘルツェゴビナ共和国(とセルビア共和国)で起きた民族紛争に、一見外側の米国の大手PR会社ルーダー・フィン社が実は大きくかかわり、紛争の構図を作り上げ世界を動かしたという。その「情報操作」の打ち手と結果を明かす本。

情報の入れ方の影響。読み終わって空恐ろしい気持ち、しかし読んでよかった。

多数向けコミュニケーションのテクニックとして勉強になるところと、情報の扱い方接し方でモヤモヤするところとあり、本記事は後者について。

PRと倫理

PRとは「顧客を支持する世論を作り上げる」(p.13)、「メッセージのマーケティング」(p.90)。あらゆる情報を使って、大衆にこちらの望む像を見せる仕事である。

主張の妥当性
世論を誘導する。その誘導が倫理的に問題のない内容か(この件ではボスニア側につくことが問題ないか)、ルーダー・フィン社は事前に検討してGOの判断をしている。また、情報発信において嘘もついていない。

しかし嘘であった「ナイラの証言」はNGで(ここに異論はない)、嘘は“言っていない”だけの「鉄条網ごしのやせた男」はOKか。

(ナイラの証言(湾岸戦争))
クウェートから来た少女「ナイラ」がクウェートの病院におけるイラク軍の非道な行いを語り、これによってイラクへの国際的な批判が高まり、アメリカ参戦の契機となったが、のちにPRのための偽証であったことがわかった。

(鉄条網ごしのやせた男(ボスニア紛争))
鉄条網の奥にやせたムスリム人男性が写る写真から、非道な「強制収容所」を匂わせた。しかし実際はカメラマンこそが鉄条網の内側にいて、鉄条網はカメラマンの背後の施設を囲うためのものだった。男性は鉄条網の外側で、収容されていなかった。

ムスリム人とセルビア人は実際には“どっちもどっち”な状態だったという。どちらも相手を差別し危害を加えていた。しかしボスニアのPRが、一方的にセルビア国・セルビア人が悪で、ボスニアのムスリム人が被害者の構図にした。

ボスニア紛争におけるPRが倫理的に問題ないかは、すっきりしないところである。とはいえ、著者の指摘のとおり、対策として情報発信を厳しく監視・規制することがそれはそれで不都合を生じることも確かである。

また受け手はこの誘導に過度に引っ張られないよう努めよといっても難しい。多様なソースから情報を取る、多面的に見る、難しいし面倒である。しかもごく一部の人が実践できたとしても、大多数が引っ張られれば世論は作られ、政治も経済も動く。受け手側への対策ではPRの力が働きすぎることは止められない。

事実ばかりからでも偏った像を見せることができる。ひとまずはその恐ろしさを感じて、モヤモヤの気持ちで本を閉じました。

主張する者の人格
また、主張の妥当さとは別に、主張する者個人の人格の問題もある。ルーダー・フィン社はクライアントのシライジッチ外相の人間性には嫌悪感を抱きながらも、その政治的な主張のために全力を尽くす。だがこれは割り切れない人も多いだろうし、割り切るべきかどうかも、個人的意見を聞かれると難しい。

「ハーフにとって、ビジネスはクライアント個人の人格とは別次元の問題だ。」(p.80)

下品だが政治の才に長けた人と、人格者だが政はいまいちな人と、どちらに政治を任せたいかというと前者を選ぶ。政治を経営に置き換えてもそう。それが賢明だと思っている。しかし“下品”が過ぎれば、非道となれば、話は変わる。さてどこが“過ぎる”の境かというと曖昧である。

日本の外交
セルビアはほとんどお金を出さずに米国を、欧州の先進諸国を、国連を、動かしている。度が過ぎて偏った見方に誘導するのは問題もあろうが、日本もある程度まで、せめてもう少しうまくやってほしいというのも思う。

世界がこういったPRのプロの力を使っている。出遅れたセルビア側のことを読んでいて、日本の姿がちらついてしまった。


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