何事もできないより、できたほうが良いよねって話。
中学時代はよく友達とゲームセンターに遊びに行っていた。
田舎で育ったわたしたちは、小学生までの間は「学区内」という見えない壁に守られ、遊びといえば遊具のひとつもないだだっ広い公園で、無意味にボールを蹴ったり、夏は水風船で怒られたり楽しんだり、ただくっちゃべっていたりしていた。我ながら健全な小学生時代だ。
それが中学に進学し、学区という枠が大きく広がったことをきっかけに、当時オープンしたばかりの「ゲームセンター」がわたしたちのテリトリーになった。「遊び」は、「レーシングゲーム」や「シューティングゲーム」「カラオケ」「ボウリング」「音ゲーの類」などなど、一気に色気づきはじめた。某ラウンド〇ンの良いお客さんである。
この変化に、学校内ではよく「ゲームセンターに遊びに行くときの注意喚起」や「先生の見回り」なんかも行われるようになった。わたしの両親も決して快く送り出していたかと言われると、若干眉をひそめていたようにも思う。
確かに、少ない小遣いをゲームセンターで無駄に使ってしまうのはとても勿体ないことだし、何よりゲームセンターで得られる学びが少ない。ガチャガチャとうるさい店内で、脳への刺激だけが先行し、頭を使うということが皆無だと思うからだ。
だが・・・学びは必ずしも頭で受けるものだけではないんだなーと、わたしは最近になって感じたりすることがある。
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スティーヴン・スピルバーグとロバート・ゼメキスの傑作『バック・トゥ・ザ・フューチャー』をご存知だろう。
言わずもがな主人公マーティー・マクフライと、タイムマシンを発明したブラウン博士が送る、壮大なSFアドベンチャーシリーズである。
身震いするほど最高の音楽と、圧巻の伏線回収。
すべてが完璧すぎる、まさに映画の教科書的な本作だが、なんといっても見どころはピンチを切り抜けるマーティーの柔軟で軽快な身のこなしだ。
エレキギターの腕前、スケートボードを乗りこなす姿、銃裁きも一流で、女の子のデートの誘い方もピカイチ。
そう、この"何の役にも立たない"遊びの才能が、シリーズの第1作目から輝き続けている。これが面白くて堪らない。
「何事もできないより、できたほうが良いよね~笑」
本作を観るたびにそう思う。つくづくそう思う。どんなにくだらない遊びだろうが、ゲームだろうが、できないよりできたほうが良い。何が自分の身を助けるか分からない。何が実を結ぶか分からない。邪道かもしれないが、何かそういう「生きていく上でなんか大切なこと」を、この映画はよく表現してくれている。
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ちょっと話がそれたが、大人になると、より一層この意味が深みを増してくる。
シューティングゲームなんてできなくても何の問題もない。が、あの時地元のやんちゃ坊主たちにくっついて腕を磨いたおかげで、デートでいい格好ができるときがある。
ボウリングやカラオケなんて下手くそでも何の問題もない。が、あのころ時間を忘れて夢中になったおかげで、様々な年代の方と円滑なコミュニケーションを実現できるときがある。
直接的なそれじゃなくとも、仕組みを知っている、経験がある、出来る、という事実が、時にものすごい助け舟として目の前に現れてくれるときがあるのだ。
それは決して、頭で考えて得た何かというより、感覚で身体が勝手に覚えていることと言える。特にゲームの類は、その経験が顕著だ。そんなゲームや遊びだけで、上手いこと生きている人をとても憎いを思っている時期もあった。真面目にやってきた自分が馬鹿みたいじゃないか!と思っていたが、よく自分の行いを振り返れば、ゲームをやってるときのそれは、紛れもなく真面目にやっているのだ。その時のスコアに、友達との対戦に、ふざけているわけがない。人様が真面目に取り組んだものに憎しみなんかを抱くなんて、甚だ見当違いな感情である。
世の一般的に言われる、"良さげなものかどうか"という差だけで、肝心なのは何事も真面目に取り組んだかどうかなのである。そして真面目に取り組んだものは、嫌でも身体が勝手に覚えている。
何やってるの?と言われるこのnoteも。
そんなに観てて楽しいの?と言われる映画も。
何回も行って飽きないの?と言われるディズニーランドも。
繰り返し足を運んだあのゲームセンターも・・・。
真面目に取り組むことが、いつかの助けになるかもしれない。
・・・ならないことのほうが多いかもしれないけど。笑
そんなことを思う今日。
ちなみにわたしは『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3』がいちばんお気に入り。『PART3』はいつも最後なんか泣いちゃう。
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