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『平原の町』を読んだ

 『平原の町』を読み終えた。これで、コーマック・マッカーシーが手掛けるいわゆる「国境三部作」をすべて読み終えたことになる。前作の『越境』が人間の心根を探るような難しい物語であったので、最後はさらに難しい者仕上がるのだろうかと身構えていたが、そんなことはなくストレートなラブ・ストーリーに仕上がっていた。それ故に読みやすく一貫して楽しめるものであった。
 何度かマッカーシーの作品に付き合って朧気ながらわかってきたのだが、失われてゆく古き良き西部を描写することは郷愁といった感情ではないと思う。それでは何が含まれているのか。
 古き良き西部というのは、白人たちが先住民たちの生活・文化を蹂躙しできあがったものである。その土地の土にはインディアンが虐げられた血の記憶が克明に刻まれている。小説や映画でどれだけカウボーイがかっこよく活躍しても、彼らの祖先たちがインディアンの頭皮を剥いでいたことには変わりない。その行為がいいか悪いかといいたいわけではなく、そういう歴史を抱えている場所なのだ、と言いたいだけだ。
 『平原の町』を読んで知ったのだが、マッカーシーはニューヨーク・タイムズでインタビューを受けたことが有るらしい。そのインタビューの中で「流血のない世界などない。人類は進歩しうる、皆が仲良く暮らすことは可能だ、というのは本当に危険な考えだと思う。こういう考えに毒されている人たちは自分の魂と自由を簡単に捨ててしまう人たちだ。そういう願望は人を奴隷にし、空虚な存在にしてしまうだろう」と述べている。
 国境三部作の内容はだいたい暴力を含んでいる。ナイフで決闘を行ったり、弟が兄の知らない内に死んでいたり、非業な事柄が多く含まれている。その事柄を通して見ると、そこに<古きよき>という郷愁のような感情が本当に含まれているのだろうかと思う。
 確かに、緻密な情景描写やメキシコに住む人々の生活などは郷愁を覚えるだろう。しかし、それ以上に国境三部作は血を流す。そのむせ返るような血の匂いが郷愁の感情を払拭させ、別のことを想起させる。
  別のこととはなにか。血の記憶が溜まっている古き良き西部と、マッカーシーの言うところの「流血のない世界などない」という発言とを組み合わせてなにが言いたいのか。
 主人公であるジョン・グレイディは社会の輪から外れた無法者である。それ故に、暴力の世界に飛び込み晒され最終的には古き良き西部の記憶の一部となる。その中には郷愁といった感情はなく、絶望の感情しかない。つまり、マッカーシーは古き良き西部で郷愁を描いているのではなく、絶望を描いているのではないかと思う。
 描かれた絶望の中で、なにを美しいと感じ、なにに感銘を覚えるのか。『すべての美しい馬』『越境』『平原の町』、この国境三部作を通して最後の最後でこうでないかと自身の言葉で考えることができたのは幸いで無いかと思う。

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