我思う故に我なし
初めには何も意味するものではない
サルトルはフランスの哲学者であり小説家。
「実存は本質に先立つ」と提唱した言葉も有名。
「人間性というものは存在するかもしれないが、その存在は初めには何をも意味するものではない」、つまり存在、本質の価値および意味は当初にはなく、後に作られたのだとこの考え方では主張される。(Wikipedia)
う~ん、難しい。
サルトルの妻(婚姻はしていない)シモーヌ・ド・ボーヴォワールはこの考えを基に、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という言葉を残した。(Wikipedia)
なんとなく、わかるような…。
我思うゆえに我あり
「我思うゆえに我あり」は、
哲学者デカルトが提唱していた。
思考こそが自分自身であるという考え方は、
ほとんどの人が疑いを持っていないのではと思う。
ところでサルトルは、
「我思う故に我あり」と考えている私を観察する、
別の私がいることに気づいたともある。
自分が考えていることに気づいたとき、
気づいている意識はその思考の一部ではないと。
人間のエゴ
「思考=私」であるならば、
「エゴ=私」となってしまう。
エゴとは自分のことを中心に考える、
利己的な様子を指しているとある。
つまり、「うぬぼれ」だ。
私は幸せでなくてはならない。
私は誰よりも裕福で何でも手にしていなければ幸せとは言えない。
と、「うぬぼれ」はどこまでも続く。
この「うぬぼれ」、「エゴ」を手放せたらどうだろう!?
それができないのが人間。
だから、幸せを感じることができない。
今回のちょっとまとめ
「思考=私」がただの妄想であるなら、
「私」は一体なんなのか?
なんだか、哲学的になってきた。
「思考≠私」ではない、
ならば、「エゴ」を手放す方法があるのか!?
ある。
今、自分はこんなこと考えているぞというのに気づくこと。
気づく間はエゴは生まれない。
これってなにかににている。
そうだ、仏教の教え、禅のこころだ。
「今、ここに」。
思考ではなく身体の感覚だけに意識を向けてみる。
「思考=私」が生み出す「エゴ」を手放す瞬間なのか。
「我思う故に我あり」ではなく、「我思う故に我なし」なのである。
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