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伝えたいことは作文にのせてきた

今から見せる文章はどちらも私が中学生時代に書いた文章である。

なにも考えずに読んでみてほしい。

「この広い世界で生きるということ」
 
 この話の主人公である直費は、社会から"強盗殺人犯の弟"というレッテルを貼られて生きている。直貴にとって、それは生きている限り変わらず、続いていく事実である。直貴はそのことに苦しめられて生きている。

 そんな直費を救ったのは音楽だった。一度は音楽の人生を進むことを決意したほどだったが、その夢も社会からの圧力により、手放さなければならなくなる。

 でも私は、音楽の人生を進めなかったからといって、音楽を嫌いになったのではなく、むしろ音楽とより深く関わって出来たのが、この本での直貴の人生なのではないかと思う。なぜなら、直貴が音楽に夢中になるきっかけとなったバンドは、元をたどれば、"イマジン"という一曲の歌につながるからだ。本当ならどんな曲でも良かった中で、作者がこの曲にした理由は偶然などではなく、この曲を直貴が好きで歌うことで、直貴が伝えたい社会への思いや願いを読み取ることが出来るからではないか、と私は思う。

 実際この曲の中に、ジョン=レノンさんは平和への願いを込めている。私はこの本を読んで、平和、という言葉の中には、戦争がない、とか、笑顔、とか以外に、平等、という意味も含まれていると認識するようになった。その理由は、「イマジン」のいくつかの歌詞にある。

 まず"天国も地獄もなく、みんな空の下で生きている"という部分と"国なんてないんだ、と想像してみる"という部分だ。

 もし、この考え方が出来れば、直貴が背負っているレッテルを知った時に直貴を差別したり、直貴から離れる人もいなかったと思う。直貴の兄・剛志が直貴との関わりを感じられず、
、直貴を傷付けるようなこともなかったと思う。それに直貴が出会う人に対して疑心暗鬼になりすぎず、社会性を失うこともなかったと思う。

 次に"国なんてないんだ、と想像してみる"という部分と"人はみんな兄弟なんだ、と想像してみる"という部分だ。

 もしこの考え方が出来れば、そもそも剛志が罪を犯さずに済んだと思う。元々優しい剛志なら、人を傷付けてまで弟を大学に入学させたい、という欲をおし通すこともなかったと思う。

 これらのイマジンの歌詞とこの物語の登場人物との対照は、私に現実社会の厳しさと、理想の世界にするための難しさを教えてくれたと思う。

 現実社会の厳しさといえば、私にもう一つ思い当たることがある。それは、連日報道されていた"中二自殺"のことだ。

 この話の中にこんな言葉を言った人がいる。
「殺人は人の繋がりを無断で断ち切ること。
それは絶対にしてはいけない。自殺は自らが望んでいても周りが望んでいるとは限らない。
だからそれもまた悪であり、社会的な死なのである。」私はこの言葉に心をうたれた。病死以外の死に関して、法律云々以外にそのような見方をしたことがなかったので、すごく印象に残っていた。

 だが、連日報道されていた自殺に関しては死を決意したのは被害者自身だったが、そのきっかけを作ったのはクラスメートだ。私は殺人と呼んでも良いと思う。被害者の子が自殺して悲しむ人はたくさんいたけれど、一日何時間も同じ空間を共にするクラスメートが死を望んでいると思わせるくらいの仕打ちを行ってしまえば、誰でも自分の居場所はない、と勘違いしてしまうのは当然だと思う。

 強盗殺人犯の家族への差別、自殺の被害者へのいじめ。双方に共通して言えることは、周りに多い意見が必ず正義とは限らない、ということだと思う。"強盗役人犯の家族はその血が流れている"、と勝手な憶測を立てて、大して関わってもないのに、周りがよそよそしいから自分も、という連鎖で差別が起こるのではないか。周りがいつのまにかある人を避けている。自分が同じような仕打ちにあいたくないから、とか、あなたもみんなにあわせなきゃダメ、という圧力がいじめへと繋がったのではないか。
直貴はそんな中で、それらの現実から目を反らさず、乗り越えるための第一歩を踏み出した。
そんな直貴に私は心から敬意を払いたいと思う。

 だが、自分の身近に直貴のような人がいた場合、本当に正しい対応を出来るか。自分が差別する側になると考えると恐ろしいと思う。

 今私達に必要なのは、人の多様さを素直に受け入れることだと思う。またそれが、人間にとっての課題であり、この世界が平和になる第一歩なのではないだろうか。

 直貴は"イマジン"を歌うことで、これらのことを伝えたかったのではないだろうか。

        読んだ本:東野 圭吾「手紙」


「心動」

 私は昨年11月28日、嵐のドームツアーに行ってきた。そこで初めて"コンサート"という空間を知った。"素晴らしすぎて言葉にできないほどの感動"を体感することができた。

 私は嵐のメンバーのひとりひとりが自分の役割に"意味"を見出し、ただ"観客を楽しませたい"と思っているからこそ、それが形となって表れたとき、感動するのだと思う。

 私達は日々悩んだり落ち込んだりした時に、人に相談したり、本や音楽、テレビなどで気持ちを切り替えようとする。メディアとは、人が創り、人が世に送り出す世界観なのだから、
当然 "好き"というだけでは成り立たない。"人に何かを伝えたい"という意図が加わることにより、人は勇気づけられたり、納得したりできるのだと思う。

 だが近年、近未来では"ロボット"が活躍するようになると言われている。確かに、今の最先端技術さえあれば、高性能な介護ロボットや会話のできるロボットをはじめ、いろんなことがロボットによって解決できることになるだろう。おまけに、便利で使い勝手がいいし、人手不足の解決にもなる。

 でも私は、やはり人とコミュニケーションをとったりするのは生身の人間でなければ意味がないと思う。確かに、ロボットだって人の手で製造されるものだし、"役に立ってほしい"という想いで作られるのだろう。だが、ロボットは
"データ"が全てであり、そこに自在な感情はない。"いのち"という言葉のもつ元来の意味は、
"生物が生きていくためのもとの力となるもの"
である。果たしてロボットには、その力はあるのだろうか。

 人が人を想ってすることには必ずその力がある、と私は信じている。

 わたしは限られたいのちを"便利なものに流されず、人を想って行動できるような人になるため"に使っていきたい。

1つめは中2のときの読書感想文、2つめは中2のときにかいたスピーチ原稿(テーマはたしか「いのち」)である。

ちなみにこの読書感想文はコンクールで優秀賞をとった。(なので、パクるとバレると思いますよと言っておく)

これらの文を読んでみなさんはどう感じるだろうか。

この文章を書いた時期は、久々登場であるわたしの人生グラフでいうとマイナスに転じている時期である。

当時わたしは私立中高一貫の女子校に通っていた。そこで女子特有の軽い いじめに遭っていた。

友達だと思ってた相手に裏切られ、

グループワークなどで「やって」といわれて考えたことは発表のときには全部手柄を横取りされ、

成績でも運動でも私よりもできないの子がなぜか周りからほめられる、

表彰されたり発表しても拍手をもらえない

いろんなひとからハブられて、休み時間、お弁当は10分くらいで1人で食べ終えて、残りは勉強する。とても退屈だった。

なのに、帰り道にたまたま会って1:1とかのときには優しく話しかけてくれる。

意味がわからなかった。

なぜ私は正当な評価を受けられないのか。

なぜ私は仲間に入れてもらえないのか。

当時とても悩んで、先生に相談した。
直接嫌なことをしてきた子にはその子の言い分も聞いた上で先生は
「あなたは悪くない。気に病む必要はない。」
といった。

同級生がそんな感じだった一方で、先輩や後輩はよく慕ってくれていた。

そんな環境だったからこそ、周りを変えたかった。直接私が手を下さず、みんなの目にうつる功績と功績によって掲載される私の文章を読むことで、気づいて、考えてみてほしかった。

「文章上手だね」「いい文章だったよ」「頭いいね」とはなっても、当たり前だけど行動は変えられなかった。伝えたかった人には伝わらなかった。だけど、先生やコンクールなど然るべきところからは評価された。私のメッセージが伝わったからこそだと、私は信じている。

私は読書感想文で、本の内容に寄り添うこと、
スピーチで嵐の話を出すことで、1度寄り道をしつつ、最終的には自分のメッセージを伝えることに成功した。

誰に、なにを伝えたいか、が明確な文章は、何を介していても伝わる人にはそのメッセージ性が伝わるものなのだと、これらの経験は私に教えてくれた。

だから、今日も私はこうしてnoteを綴る。

たくさん書きたいことはあるけれど、本当にちゃんと伝えたいことを、納得のいく形で伝えられるようになるために。

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