コーヒーを1杯嗜むような幸せを
ガラガラと豆を挽き終わると、母に渡す。
すると、トポポポッという音と共に液体が抽出され、運ばれてくる。
いつからか朝ごはんにコーヒーが並ぶようになっったが、コーヒーの匂いに包まれて迎える朝が好きだ。
また、私と勉強とコーヒーは切っても切り離せない関係にあるのだが、憂鬱な課題の遂行中でもコーヒーがあれば、少しがんばろうと思える。
例えるならコーヒーは、私の暮らしに彩りを与えてくれる"さしいろ"だ。
*
私は上でいうコーヒーのような存在をたくさん持っている。
最近は、大学から帰ってきてすぐお風呂に入り、もうあとは食べさえすればいつでも寝られるという状態にし、簡単な課題はすぐに終わらせて迎える19:00頃からの自由時間。
ちなみにここ数日の自由時間のお供は、あだち充のH2(漫画)。
それまではアニメのH2、そのさらに前はアニメのクロスゲームを1日に2話くらい、父と一緒にみていた。
他には、新作を買うこと。
今日は〇〇の発売日だ!となると外に出るのがワクワクする。
この前は相沢沙呼さんの新作小説・Invertを買って帰るのが楽しみだったし、先月は着飾る恋には理由があっての公式本を買って帰るのが楽しみだった。
今月末には嵐のアラフェス2020のDVDを予約してるし、来月には髭男のニューアルバム・Editorialが待っている。
他には、寄り道。
大学やバイトの帰りにふらっと本屋さんに立ち寄るのが好きだ。あと、大学で単独行動のときは学内のスタバで何かしら買ってから自習を始める。ちょっとした贅沢をした気分になって嬉しくなる。
他には、歩いているとき。
晴れの日は真っ青な空を感じながら。
朝早い日は珍しい空模様を感じながら。
夜の早い冬の日は夜空を感じながら。
ボーッと自分の思考に耽りながら、街並みを見つつ、歩くのも好きだ。
他には、大学に行く電車の中。
お気に入りのSONYのBluetoothイヤホンでSpotifyを聴きながらnoteを書く時間もお気に入り。完全に自分の時間に浸れるから。
他には、お気に入りの服を着ていくとき。
新しく買った服だったり、メイクや前髪も含めてキマった!と思えるコーディネートで外に出ると、特になにがあるわけでなくてもワクワクする。
あとはなによりも、泳いでいるとき。
プールの中は自由で、ほとんど何も聴こえないし、無我夢中で泳いでいると、色んなことを忘れられる。
いざ挙げてみると、1人時間ばかりだ。
もちろん、彼や親友といった大事な人といる時間も好きだ。居心地もいい。
だけど私はそれを非日常で、贅沢なことだと思っている。
昔の私は、"人気者になりたい"とか、"女優になりたい"とか、ゴールが不透明な、大きなことばかり求めていた。
「なりたい」はあっても、「したい」はなく、どうすればいいかわからない日々の中で、気づいたことは、人は簡単に離れていくということだけだった。
そして、それまで私が思っていた「こうなれば幸せ」は、人がいないと叶わないことばかりで、自分が努力したところで必ずしも叶うものでもなかった。
そう気づいた時には、もう1人時間を楽しむ人間になっていたのだと思う。自分の「これが好き!」に気づき、自分に「こうしたい」という意思が芽生えさえすれば、それに従うだけで満たされる。
自由をすごく感じる。
「君は強い子だからね」
高校時代の親友に裏切られ、泣きじゃくる私に彼が投げた言葉だ。
"強くないよ、弱いよ、だって傷つくことにまだ慣れてないもん、こんな泣いてるし。"
そうはいったけれど、今日そのときのことを思い出しながら歩いていると、裏切った親友に遊ぼうと言われたら私は許して、遊んでしまう気がした。
そういうところなのだろうか。強さというのは。
もし そうなのだとすれば、何が私を強くしたのだろう。
ああ、そうか。
私は、日常の小さな喜びを大きな幸せだと思える人間になれたから、普通の人と比べると強いのかもしれない。
周りに友達がいてくれることが無意識に当たり前だと思っていた小学生の私のままだったら、きっと、今の充実感や満足感なく、不満ばかりだっただろう。
望んだわけではなくても得た1人でいる時間で、他人に認められるだけでなく、自分1人でも自分を幸せにすることはできるのだということに気づいた。
漫画、アニメ、新作、寄り道、歩き、電車の中、コーディネート、水泳。
中には本当に些細だと思われることもある。
それにもしかしたら、大きな幸せが叶うこともあるかもしれない。
だけどそれでも、私はこれからも小さな喜びに大きな幸せを見出せる人間でありたいと、大学から帰り、家でH2を読みながら思うのだ。
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