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セミの声

 雲ひとつない真夏の正午近く、猛烈に太陽が照りつける歩道を私は駅に向かって走っていた。狂ったようにセミが鳴いていた。

「お母さんの容態がかなり悪い」

いつも冷静な姉からの弱気なメールを受け取ったのは、私自身の脳神経外科の診察を終えた直後だった。今から11年前の事である。母と同じ病気の私にも聴神経腫瘍があって定期的にMRIを受けていたのだ。

 この病気は脳や脊髄に腫瘍が多発し、左右両側の聴神経に腫瘍が出来るので、難聴を経て失聴するケースが多い。現在は治験もスタートし、医学の進歩により少しずつ治療の光が見えてきたが、病気が分かった30年前は選択肢が少なかった。

 何の罪もない母は、4歳違いの姉と私を育て上げるまで聴力の極度の低下や体調の異変を感じながら、口にしなかった。今思えば、あいまいなあいづちが多かったのに、私たち家族は気づいてあげられなかった。

 20代の私は会社を辞めて、手術を経て聞こえなくなった母のサポートをすべく母の耳になった。リハビリの付き添いや手話サークル、祖父の代から続いていた商いを母の代わりに手伝うことになったので、母と過ごす時間が大幅に増えた。車の運転中に助手席から話しかけてくる母に、右手でハンドルを持ち左手で手話をした。「今運転中だから、待って!」と強く注意もした。

 小春日和の縁側で母と過ごすひととき。私は音楽を聴く。その横で母は本を読んでいるが、この音は母には届かない。暖かな日差しが降り注ぐ同じ空間、流れる音が空気を通じて母に伝わらないのを寂しく感じた。やがて自分にもその時が訪れるのを恐れながら…。

 母と私は脳腫瘍の開頭手術を交互に受けていた。そんな中でも、姉も私も家庭を築き子供を産んだ。孫の世話も経験できた70歳が近づく頃、母はいよいよその命を終えようとしていた。もう長くないことを悟った母は、家で命を終えたいと強く望み、在宅介護の日々が始まった。医師、看護師さん、ヘルパーさん、父と姉妹で一つのチームになり、急激に病状が進む母に寄り添った。

 母は料理が得意で、盛りつけも彩りも見事だった。台所の戸棚には、煮干し、昆布、鰹節、干し椎茸が常にストックされていて、大きな鍋に大量にダシを作り、それぞれの料理に使い分けていった。

 姉の家族、私の家族、茶の間にみんなが集い、母の手料理を囲んだ。聞こえない母に、団らんの様子を手話で伝えるが、全てを伝えるのは難しかった。

 長い歴史が刻まれた茶の間には、とうとう介護用ベッドが置かれて母の病室になった。希望が持てない介護は、精神と肉体を消耗する。時々くじけそうになる家族を、経験豊かな医療チームが潤滑油となり支えてくれた。

 早くラクにしてあげたかった。聞こえない上にさまざまな機能が低下していく。日に日に弱っていく。安らかなところへ逝かせてあげたいと思った。

 太陽が沈み、家族が全員揃うのを待っていたかのように、母は静かに大きくひとつ息をして、70歳の生涯の幕をとじた。父の涙を初めて見た。

 医師が臨終を告げた後、母の閉じた目から一筋の涙が流れた。医学的に言えば、死亡直後には徐々に身体の変化が起きる。そのためにエンゼルケアが行われる。

でもこの涙は、母の別れのメッセージなんだと、皆で泣きじゃくった。

 葬儀が終わり骨壷に納める際に、白い骨の中に焼け焦げた小さなボルトを見つけた。病状が悪化し始めた時、元気を取り戻したくて歩行器を使い1人で散歩に出て大腿骨を骨折した。その接続のボルトだ。私はそれを白いハンカチに包み持ち帰った。小さな絹の袋に入れて、私はいつも母と一緒にいる。

 それから激動の11年。私の病状も進み、娘を育てながら開頭手術をして、ついに私も音を失った。障害の受容は、本人も家族も大きな負担を背負う。家族の立場と聴覚障害者の立場を経験しても、その難しさに日々苦悩する。

 でも、あの夏のセミの声は今もしっかりと脳裏に刻まれている。あの日、母からのバトンを受け継いだのだから。

#CODA #中途失聴 #難病 #介護 #看取り

 

 


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