「推し、燃ゆ」を読んで
芥川賞を受賞した宇佐見りんさんの「推し、燃ゆ」を読んだ。
普段、このご時世なので出かけることも少ないのだが、今日はたまたま出かける用事があった。そこでたまたま本屋に立ち寄り、たまたまこの本を見かけ(と言っても芥川賞受賞作だからめちゃくちゃ目につくとこにあったけど)、オードリー若林さんがインスタのストーリーに「推し、燃ゆ」の単行本の表紙を撮った写真を上げていたことを思い出した。
興味をもった僕は、特集コーナーのPOPに目をやると、著者が21歳だと知り、ショックを受けた。21歳という若さに驚いたというよりも、自分と同い年の人が活躍しているという事実を改めて突きつけられたことがショックだった。前までは、テレビで活躍している人は大体年上だったが、今や同い年や年下であることが増えてきた。そんなとき、まだ何者でもない自分と比較してしまい、少しヘコんでしまう。自分がその活躍している人たちと同等だなんてとても思わないが、同い年という土俵に上がっている以上、自然と比較してしまうものだ。
自分と同じだけ年数を重ね、生きてきた人がどんな文章を書くのだろう。
気になって、僕は「推し、燃ゆ」が全文掲載されている文藝春秋を買って読み始めた(そっちのほうが安かったから)。
気が付くとのめりこみ、一気に読んでしまった。ここには本の内容は書かないとして、自分の気持ちの変化を感想として書こうと思う。
一言でいうと、打ちのめされた。
社会で生きていくために虚勢や見栄や作り笑いなど無理やり貼り付けたつぎはぎだらけの自分の鎧が、一枚一枚剝がされていくのをただ見ているしかないつらさがあった。
でも、読み進めるのをやめることはできないし、読むしかなかった。
普段、僕は「理不尽な自分」と「理不尽な社会」を折り合わせて生きている。
「社会にとって理想的な人間であれない自分」
と
「自分にとって理想的には動いてはくれない社会」
これは別に自分と社会のどっちが悪いとかそういうことではなく、自分と社会は別物なので、そこに軋轢が生まれるのは当然だと思っている。その中でも大半は「理不尽な自分」をなだめすかし、納得させて生きている。
だが、理不尽な自分をえぐり出してくるような小説を読んだとき、「いや、社会が折れろや!」と社会に対して攻撃的になってしまう。小説を読む前後で、外見上の僕も、社会も何も変わってないはずなのに、僕から見た社会の見方はガラリと変わってしまうのが不思議だ。
それでも、時間が経てば、社会に揉まれて元通りになっていくのだけど、定期的に理不尽な自分に向き合うことは必要なんじゃないかと感じた。
「理想的な自分」を目指していると、「理想的」になれなかった自分になれなかったとき、その強い情熱は反転し、自分への強い負の感情へ変化する。
そのとき、理不尽な自分に向き合う経験がまた現実を生きていくための予行練習みたいなものになってくれるんじゃないか。
理不尽な自分の声を聞いてあげるいい機会になったと思う。
最終的には作品の感想というか、自分の内省になってしまった。書評を読んでないので、的外れなことを言っているかもしれないし、自分の都合の良いように解釈しているかもしれない。
でも、まずは自分はどう思ったのかという感想を大事にしたいので、ここに書き記した。後で、書評を読んで、またそれはそれで楽しみたい。
読後、打ちひしがれてしまっていたが、この作品の最後の展開にどうにかすがって明日からも着実に、一歩ずつでいいから現実を生きていこうと思う。
ただ、今日はダメージがデカいのでとりあえず寝よ。
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