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はじめに 夜明け前にて思うこと。

子どもの頃わたしはアクビちゃんみたいな女の子になりたかった。
そう、「ハクション大魔王の歌」のB面に収録されている「アクビ娘」。あんな風に魅力的な女の子になれたらどんなに良いだろうと思っていた。

…かわいいかおしていろじろでちえがまわってあかるくて…

しかし時は経ち、わたしはあの歌詞の条件を何ひとつ満たせないまま大人になった。コンプレックスにつま先を浸し重たくどろりと今にも溶け出してしまいそうな脳みそを抱えながら過ごしている。

暗い夜の中懐中電灯を持って辺りを照らしながら歩き続けてきたのだがその電池が切れた。わたしは今、その電池をあたらしいものと替える術がわからずに立ち尽くしている。
そして今度は都市の中心のように目が痛くなるほどの光がやってくるが眩しすぎてなにも見えないし、すぐに街明かりは途切れて昏い夜はそのまま広がった。

しかし空がいちばん暗い夜明け前にいてもたまに遠くで星がまたたき、そのような底に存在する甘みに慰められながらなんとか息をしてここまで来た。

もしかしたら嘘みたいな青空に巡り会うこともあるかもしれない。でも夜は繰り返しやってくる。そうして道に迷ってしまった時、朝焼けに出会うための手がかりになるかもしれないと記録をつけてみたくなったのだ。

これの名前は「双極性障害」というらしい。
わたしは特に何の取り柄があるわけでもないしお察しの通りこうした文章を書くのがあまり得意ではないのだけれども、この病気が当たり前に染み込んでいる日常や好きなことについて自分なりに書いてみようと考えている。魅力あるコンテンツが溢れかえるいまの時代だからわたしの言葉はすぐに紛れてわからなくなるかもしれない。埃を被るのも早い。それでも褪せない何かが残るかもしれないと信じて指を動かしてみた。

この病気を見せびらかしたいわけでもかわいそうだと言って欲しいわけでもなく、精神疾患というものはまだまだ偏見や正しくない知識がゴロゴロと転がっているしそのメカニズムも未知なるものだ。今できる限りの治療をする他なくてジタバタしたところで仕方ない。ただこの夜をすこしでもあたためることが出来れば、と感じたのだ。

呼吸することをあらたまってどうこう言わないのと同じように、わたしにとっての双極性障害は自分を構成する要素のひとつである。なってみて目線がガラリと変わったし少しだけ優しくなれた気がする。気がするが実際どうなのかは置いておいて。

高校を卒業して3年ほどお世話になった会社を退職し療養して7ヶ月経つ。
同僚に恵まれていたし、嬉しいこともちゃんとあった。けれどまったく役に立てずそれに対する申し訳なさが知らないうちに膨れ上がっていつの間にか手に負えなくなってしまった。お世話になった方々にちゃんと挨拶することもままならないまま退職という選択をしたことはいまだにこれで良かったのか、という気持ちになり申し訳なさと名前のつけられない息苦しさが迫ってくる。
時間が思ったより経っていて焦る時もあるしこれから何者になるのかまったくわからないけれど生きづらさを抱えつつも自分なりに居心地のいい場所へ向かって行きたい。たぶんそれが今わたしにできる唯一のことだ。

そしてひとつ分かったことがある。
結局アクビちゃんのようにはなれなかったかもしれないけれど、わたしが生きていることを喜んでくれる人は意外といた。それだけでもうわたしのくらしは上々じゃないか。

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