【小説】うたかたも続けば同じ夢
終電間近の心斎橋で境田爽とすれ違った。
四年ぶりだった。
ビルの煌めきが本当は果てしないはずの暗闇に勝っていて、その谷間を土曜の開放感たちが行き交う。
なんとなく視界に入ってきた。三度目のチラ見で確信した。咄嗟に「爽ちゃん!」と呼びたくなって、蓬莱夏樹は閉口する。あの頃の境田が身に付けていたものなど、もうどこにも残っていないように見えた。キミの知らない時間を生きてきました、と言わんばかりに前を向いて笑う境田の隣には、やたらシュッとした男がいた。
上品な嫌味でも言いそうな顔をしたその男は、すれ違いざまに「逆に不便やで」と言った。声までシュッとしていた。
なにがやねん、と白けながら、それでも蓬莱は振り向いてしまっている。
終電を目指す人が待ち合わせ場所へ急ぐみたいにして、ひときわ明るいOPAから地下へ次々と降りて行く。同じように境田たちも階段を降りながら消えた。
どうして、大阪にいるのだろう。境田はずっと東京にいるものだと蓬莱は思ってきた。
***
計画的に行動することを苦手としていた境田は、五年前、大阪最後の一週間を蓬莱の部屋で暮らした。
住んでいた学生マンションの退去日と、上京後に住むマンションの入居日と引っ越し日の順番がぐちゃぐちゃになってしまい、キャリーケースを引いて蓬莱の部屋の玄関先に現れたのだった。
もともとふたりは、どちらかの部屋に週一か週二か週三で泊まる仲だったけれど、キャリーケースのよそよそしさが、これまでの日々を部屋の隅に追いやってしまうほど存在感を放っていて、境田と交互に見比べれば、ここがさよならのはじまりにも思えてくる。
この一週間が終われば、ふたりは大阪と東京に分かれて暮らしはじめるのだ。自分の方が落ち込むと予想を立て、蓬莱は気が重くなった。
前かごがちょっと歪んだママチャリをガシガシ漕ぐバイト帰りの道。大根キムチの入ったビニール袋がハンドルの下で揺れる。
閉店後の締め作業の後、やけにあっさり帰ろうとしたことを店長に見破られて、家に境田がいることを簡単に伝えたら、くれた。「爽ちゃんによろしく」と。蓬莱のバイト仲間だった頃の境田が好きだったものだ。
小さな声で礼を伝えると、店長は「仲良いことが何よりやな」と明るく蓬莱の肩を叩いた。
これ絶対、住人よりチャリの方が数多いやろ、と見るたびに狼狽する狭い駐輪場に自転車を停め、ポストからはみ出ているチラシを傍のゴミ箱に捨てる。動きが鈍く音は大袈裟なエレベーターに乗って、自分の部屋の階で降りると窓から灯りが漏れていた。爽ちゃんがおる、と実感する。
深夜に近い時間のはずだったけれど、ドアの前に立つと幸せな夕方のにおいがした。
「ただいま、爽ちゃん」
「おかえり、おつかれ様! 今日、人生で初めておでん作ってんけど」
「嘘やん、すげえ」
蓬莱が目をまるくすると、境田は両手で口元を隠して、あえて「ふふふ」と声に出した。そして簡素なキッチンまで誘導する。
「ほんまは餅巾着も入れるつもりやってんけど、鍋の中がぱんぱんすぎて諦めたわ。明日食べて減ったら入れよー」
隣に境田の明るさを感じながら、察する。これはたぶん「泊めてくれてありがとう」なのだ。
境田が蓋を開けると、ふたりは顔に美味しいにおいを浴びた。
「うまそう! ほんまに鍋ぱんぱんやな! えー、明日めっちゃ食お、めっちゃ。でな、店長がこれをくれてん。『爽ちゃんによろしく』って」
「わー、めっちゃ嬉しいねんけど。泣きそう」
大根キムチを冷蔵庫にしまいながら、「最後、もっかい食べに行こかな、なっちゃんがシフト入ってるとき」と境田が静かな声で言った。
蓬莱は、境田のその「最後、」が耳に残って棒立ちになる。境田が「なっちゃん?」と目を覗き込んだ。
抱きしめて目をつぶった。
蓬莱は自分の気が済むまでそうしているつもりだったけれど、境田が笑っている気配がしたので顔を離して一応確認するとやっぱり笑っている。
「なんやねんな、も〜」
脱力してその場に座り込むと、境田もしゃがみ込んだ。
「ええ場面やのにごめんな? Tシャツから絶えず焼肉屋のにおいが漂ってくるもん」
「ええ場面って分かってるなら我慢してぇや」
境田が声に出して笑ったので、
「うまそうやろ?」
仕方なく蓬莱も笑うと、
「めっちゃ美味しそう」
返事をして、境田は蓬莱の鼻先に自分の鼻先を擦り付けた。蓬莱は、自分よりも柔らかい頬を両手で包んで唇に唇をあてた。
顔を離しながら目と目が合う。さっきまでよりもまるく笑い合って、もう一度顔を近づけた。
夢を見ながら目が覚めたのは、翌朝のことだったか、その次の朝だったか。
目を開けると境田が蓬莱の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫? なんか顔が辛そうやったから揺すった」
「俺、爽ちゃんを忘れた」
「ん?」
「……待っててや、トイレ行きたい」
のっそりベッドから起き出て、戻ると境田がベッドの上に膝を抱えてじっと座っていた。
何度となく繰り返してきた朝の、至って見慣れた風景のはずだったのに、蓬莱は目に焼き付けておきたくなる。
そんな蓬莱の顔を不思議そうに眺めながら、境田が自分の隣をポフポフ、と軽く二回たたいたので、呼ばれるままその部分へ行って座った。
「映画を観に行ってん。夢の中で爽ちゃんと。でな、終わってトイレ行って、出たら爽ちゃんと来たことも観た映画の内容も忘れとって、普通にひとりで家帰ってきて、そのまま二度と爽ちゃんに会われへんかった。でもその映画のパンフレットが後になって出てきて、なんやったっけ、あれ? なんか忘れてる気いする、ってなるねん。おそろしいやろ」
「……私のことは忘れても大丈夫やで。なっちゃん」
なんて? 思わず境田の顔を見ると、いつも通りの顔で蓬莱を見つめ返していた。
「いやいや、嫌やし。忘れるってことがどんだけこわいか、わかってなさすぎる発言やで」
「そのこわさを私に分けてほしいっていう話やねん。同じ映画を何回でも観ようや。思い出をいつまででも話そ。忘れてもまた思い出すよ」
どうにかうまい言葉を探そうと、境田は焦っているらしかった。目が泳ぎに泳いでいるので、わかる。
境田の背中を抱き寄せた。お互いの肩に顎が乗った。
「東京行くくせに」
「人生を試したいねん。でも私が好きなんは、なっちゃんと一緒におる人生」
肩が湿ってきた。肩にだけ雨が降ってるみたいやな、と蓬莱は詩的な気分になる。生温かくて、ちょっと不快な感触が優しかった。
「おんなじ夢を見てみたい」
「素敵な気持ちやね」
「……試してみる?」
顔を離すと境田の目の下が濡れていたので、蓬莱は真面目な顔で拭ってやった。それからTシャツを脱いで抱き合った。「どんな設定にする?」「そうやなあ、」などと言い合いながら眠ってみる。
再度起きると、もう完全に午後という時間だった。
「何の夢見た?」
「俺、みかんの外皮のつぶつぶ全てに針を刺して、その正確さとタイムで競い合うっていう、心底どうでもいい大会に出場する夢やったわ、ごめん」
「私はバス乗ってて阿部寛に席を譲る夢」
どちらも設定をかすってすらいなくて、
「また夜やね、」
日当たりのいい部屋の狭いベッドで、忘れられてもいい約束を交わす。
***
小さな飲み会の帰り際に、「どこのホテル泊まってるん?」と涼ちゃんに尋ねられて、「淀屋橋やねん」と答えると、「ほんなら心斎橋まで歩こうや」と誘われたので境田は賛成した。
御堂筋線を利用するのはふたりだけではなかったけれど、難波駅の方が近いからと、他の友達とは店の前で手を振り合った。
ふたりきりになってしまうと、何かに置いて行かれた気分になって、
「楽しいと時間って早いねんな」
素直に名残を口に出してみた。
「ほんまにそれ」さっぱりとした口調だったけれど、涼ちゃんは同意してくれた。
心斎橋を歩くのは四年ぶりだったけれど、大阪には去年も戻ってきた。さっきまで一緒だった友達の結婚式だったのだ。涼ちゃんとはその二次会で再会した。高校時代に仲の良かった子はみんな地元か大阪に住んでいて、東京勢は境田と涼ちゃんだけだった。
土曜の喧騒とぬるい外気が体にまとわりつく。
涼ちゃんは隣でよく喋っていて、境田もその都度笑ってはいたけれど、本当は、何となく四年ぶりの夜の風景とか、その最中に自分がいることを実感していたい気持ちが強くあって、半分うわの空になっていた。
蓬莱を見かけたのはちょうどそんなときで、喧騒が、忘れたみたいに遠ざかった。
「それにしても涼ちゃん、相変わらず背え高いな」
思わず場を誤魔化すみたいに、脈絡のない言葉を口にしていた。意識し過ぎて見ることもできない。
涼ちゃんは「今更!?」と大袈裟に声を上げて、それから「逆に不便やで?」と続けた。
蓬莱とすれ違った。
「そうなんや」
「なぜか背の低い女子を好きやと思われるんも、入る気のない部活にめちゃめちゃ勧誘されるんも俺は嫌やったし」
「涼ちゃん昔から何でもできたもんな」
「全然そんなことないで」
何事もなく通り過ぎて、地下に続く階段の途中で、境田は蓬莱が『爽ちゃん』と呼ぶときの優しかった声をはっきりと思い出した。
蓬莱に名前を呼ばれると、よく不思議な気分になった。自分が宝物のように扱われている気がして。
「どうしたん?」
急に黙ってしまった境田を、体を曲げるようにして涼ちゃんが覗きこんだ。
このままでは、自分が大きなミスを悔やみながら生きていくことになる気がして、今すぐ蓬莱を追いかけたい。今しかない。でももう間に合わないかもしれない。追いついたところで、なんて言う? でも、今しか。
何も答えずにいる境田をどう解釈したのかは不明だったけれど、涼ちゃんは境田の手を握った。
ハッとした。握り返す気にはなれず、振り払うのも申し訳ない気がして、なかば導かれる格好で階段を降りた。
終電に間に合うよう急ぐ人波が、歩き渋る境田を追い越す。
『東京行くくせに』
『私が好きなんは、なっちゃんと一緒におる人生』
『おんなじ夢を見てみたい』
『……試してみる?』
***
ベランダに出ると雲が低かった。
雨が降りそうだ。
手すりに干すつもりで洗濯したタオルケットを持って部屋に戻った。
「なっちゃーん。失敗したあ、雨降りそうやわ」
部屋にはすでに、炒めたケチャップのにおいが充満している。
「急いで乾燥機かけてくる!」と伝えて小銭を用意していると、「ちょ待ってや」と火を止めた蓬莱がやってきて三百円を握らせてくれた。
「ありがとー」と言い合って徒歩二分のコインランドリーへ向かった。自分の小銭も持ってきたので、入り口の自販機で百円のサイダーを買って帰る。
美味しいにおいがはみ出てくるドアを開けると、蓬莱が真剣な顔でフライパンを揺らしていた。「おかえり」と「ただいま」を短く言い合って、グラスにサイダーを分ける。
小さな丸いテーブルに、卵で上手に包まれたオムライスが載った。
ケチャップでメッセージを書き合うことにして、境田は隠しながら「Beautiful!」と書いた。文字数の都合でケチャップの量多くなってんけどごめんな、と思った。目の前のオムライスへの純粋な感想、そして、これまでの大阪での日々に、というつもりで。
「せーの!」で見せ合うと、蓬莱がオムライスの上に「チャーハン」と書いていたので笑った。
「ストループ効果やで?」と説明しながら「チャーハン」を差し出してくる蓬莱の、こういうところがほんまに好きやわ、と境田はまた笑った。
水筒をママチャリの前かごに乗せて、淀川のどこかまできた。
途中で雨が降りはじめて、百十円のカッパを買って着た。あえてふたりでカッパでママチャリ、みたいなことが境田には特別で嬉しかった。
オムライスを食べ終わって乾燥機までタオルケットを取りに行きながら、「午後から雨かあ」「何する?」という話をした結果、「ピクニック」に決まったのだった。
濡れることを予想すると楽しかった。
気づくと雨は止んでいたけれど、カッパを着たまま芝生に座った。
遠くに人も車も見えるけれど、近くには誰もいない。
蓬莱がコップに珈琲を注いで手渡してくれた。弱いながらも湯気が立っている。
黙って川を眺めながら、並んで珈琲を啜っていると細い雨がまた降りはじめた。
カッパを着たふたりの肩に、膝に、コップの中の珈琲にも。
「雨やな」
前を向いたままで蓬莱が呟いた。
いつかはこんなふうに、雨の日にピクニックをしようなんて、思いつかなくなるのだろうか。
覚えておこう。
境田は強くそう思った。
カッパを着た蓬莱の「雨やな」。珈琲の上に降る雨。ここが、淀川のどこかであることも。
淀川のどこかであるここは広くて、雨の音は優しいまま続いている。
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