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ちゃんと生きる Eyes and Hands

本コラムのテーマでもある「シンプルでこだわりのある生き方」をまさに時代とともに探求し続けてきたような生活雑誌『暮しの手帖』。その創刊編集長である花森安治は、「眼高手低」という言葉をよく使い、雑誌の編集方針のひとつとしていたそうです。

「眼高手低」とは、口では立派なことを言うがそれを実現する力はない、「口先だけ」の人を揶揄する表現だそうです。しかし花森安治はこの語を独自解釈し、「高い理想を持ちながら、現実もよくわかっている」という、本来とは逆の意味に置き換えて使っていたといいます。そのエピソードに興味を持ち、色々と調べてみたところ、まさに「眼高手低」の哲学について本人が語っていた印象的な言葉を発見したので、引用したいと思います。

「理想や高尚なことをいうものほど、とかく実行力に欠ける。知識人とか学者、評論家というものの多くがそれだ。なにひとつじぶんの手を汚さずに、きれいごとだけをいっている。(中略)
 なんでそうなるのか、よく考えてみろ。連中はアタマでしか考えないからだ。じぶんの手で現実にふれ、じぶんのからだで汗水たらして考えようとしない。いつも手は机の上だ。手を地べたにつけて、ドロにまみれて考えることはしない。手はささくれ立つこともない。はしより重いものを持ったことがないという手だ。それで地にはいつくばって生きている人間の暮らしが、どうしてわかる。なにがわかるというのか。
 そんなものの眼にはなにも見えはしない。十年後どころか、一年後だってわかりはしない。明日どうなるかだってあやしいもんだ。ぼくたちは、ゼッタイそんな人間のマネをしてはいけないんだ。かっこうが悪くても、ひとからバカにされようと、いつもじぶんの手を地につけて、じぶんの手で現実をつかまえろ。手を低くしているんだ。そうすると現実はしぜんと見えてくる。明日のことも、一年後のことも、十年さきのことだって見えてくる。手を低くしていると、眼はしぜんと遠くが見えてくるものなんだ。遠くが見えるということは、眼が高くなったということだ。逆説なんだ。これを<眼高手低>という。」

(『花森安治の編集室 「暮しの手帖」ですごした日々』より)

編集という仕事への向き合い方として語られた内容ですが、それは同時に、花森安治の人生そのものに対する態度だったのではないでしょうか。『暮しの手帖』は、戦後間もない日本で、平和な世界への願いを込め、毎日の生活を少しでも豊かで美しくすることを目的に創刊されました。彼の語気の強さは、そうした背景もあるのでしょうが、その本質は時代に関わらず、むしろ進化したテクノロジーの上に暮らしている現代だからこそ、人々が立ち返る必要のある真理なのではないかと考えさせられます。

インターネットの発展は、私たちにたくさんの恩恵を与えてくれます。しかし、人間として大切なことや、自分にとって本当に意味のあることは、常にリアリティの中に存在しているように思えます。自分の頭で考え、自分の手で現実に触れ、汗水たらして、泥にまみれる覚悟を持つ。ちゃんと生きるとは、そういうことなのかもしれません。「天才」「アルチザン(職人)」と称された花森安治の「暮らしの美学」は、生きることへの圧倒的な「真剣さ」が根っこにあるように感じます。

NOTES:
『暮しの手帖』の特設サイトにて、花森安治がどのような人物であったかについて詳しく語られています。

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いつも作っているシンプルなジン・トニックを、さらに美味しくできないかと試行錯誤してみる。こなれてきた時にこそ、そうした新鮮な気持ちと謙虚な姿勢を取り戻したいものです。少し暖かくなってきた季節、早めの時間に仕事を切り上げて、ベランダで空を眺めながら飲み始めるのも気持ちよさそうですね。
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