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2/8 好調は儚い

早起きしたり、体をこまめに動かしたり、呼吸器系を楽にするマッサージやツボ押しをしたり、いつも通り里山で自然チャージしながら意識的に好調をキープしていたけど、今週に入ってからまたダメになってきたと感じる。
2日連続の過食嘔吐。
手仕事をしていたらナタで左手を負傷。縫うほどじゃなかったけど仕事がしにくくなった。
特に水仕事。直接水に触れる水仕事は私にとってヒーリングだったのだと気づく。
車のタイヤも何故かパンク。
急な予定変更に弱い。父がタイヤをすぐに交換してくれた。ありがたかったのに過食欲求入った。

最近の悩みは、里山に散歩に行っても、どこか頑張っている感じが抜けないことだ。
冬だからか?
道に残る雪ををかわしながら、冷たい風に吹かれていると、その、いつも感じられていた「許されている」感覚がしなくて、どれだけ目を凝らして木々を見つめても、歩いても歩いても、きつい、しんどい気持ちしか感じられず悲しくなることも。

この地域は海も近いので、冬季期間は雪の少ない海岸沿いを歩くことも度々あった。
冬の日本海。
何度その海に接しても、荒波の厳しさをeazyに思うことはない。
20年前、はじめてうつ病の診断を受けて高校を休学していた10代の頃、その荒波の石ころだらけの海岸をよく歩いていた。まるで、そうするしか生きる拠り所がないかのように。

昔、「山は与え、海は吸い取ってくれる。だから歳を重ねた人は山登りをするし、若者は海へ行って放出する」
と聞いたことがあったけど、この冬は特にそう感じた。10代の私にはあの荒波が必要だったのだ。
けれど、歳を重ねた今は激しい波の音と強風の中、自分の浄化を祈りながら頑張って歩いた後は、爽快感よりもげっそり疲れる感じが強い。
歳や経験を重ねて、その間のいくつもの震災の影響あってのことかもしれない。

自然は常に変貌している。
諸行無常。
光は突然さしては、瞬きのうちに消えてゆく。
そう、だから私も変化する。
好調があれば、不調もあるのが自然なんだ、、、と
自分に言い聞かせてみる。

それと、話は少しずれるけど、最近色々なことから私の中で自然に対する態度についてどうするべきか考えることがあった。
私の利己的思考が自然との調和を邪魔しているように感じてもいる。
どうしたものか。
行ってみる、やってみる。ダメなら引き返すか。
何をどこまで調べるかとか。

夜、せっかく準備して食べた夕食を吐いてる時、自問自答した。
この、狂気は何を言いたいのか?って。
なぜ、ここまで苦しいのをあえて使わないといけないのか、もう本当にさっぱりわからないんだけど、
「おいていかないで、私だけおいていかないで」
そんな言葉が心に浮かんだ。
「誰もおいていかないよ。ずっと一緒だよ?」って、素直に言えない、思えない。
でも、これも確かに私の一部なんだ。過食嘔吐も、タバコももう嫌すぎるのに、手離れてはくれない。

でも、あと1週間で死にますよって言われたら、きっと私は過食嘔吐もタバコも使うだろう。
そして、他には何をするだろう。
そこまで考えられるほどになったら、少しは不調を脱出できた感じかもしれない。


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