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全員悪人だった頃、一月のある日の感情

私は何を考えてる?
私は何を感じている?
わからない
わからなくなっている
日常生活に、自己防衛のために自己構築したルーティンに、自分の鬱の霧をかき消すために聴いていた人の声やアニメに、再開し始めた人との交流の波に、何かを消し去られているような感覚を持つ自分。


これは発達障害から来ているのか、
それとも摂食障害からきているのか、
私には私を感知する感覚がとても乏しいと感じる。
とくに、人の中にいるとその感覚を顕著に感じていて、その心もとなさや恐ろしさに知らぬ間に身構えてしまう自分がいる
人体としてそこに存在はしていても、
中身はもぬけの殻で、周囲に合わせることでしか成り立っていないような心許なさがあり、その上、ただ体は緊張して硬直しているみたいな苦しさもある…
生きているのがとても疲れる
その疲れているのかさえわからないこともある


掃除と運動習慣は、摂食障害や発達障害を少しでも軽くし、社会に適合できるようにと自分に鞭打って叩き込んだ私にとっての防衛術。
何より私は自分の体の感覚を感じることにひと時の安堵を覚えるから。
精神科の閉鎖病棟のベットの上ですら、Yogaだけはやっていたし、中間施設にいたころも支援者からやりすぎないようにと注意を受けながら、それでもできる限りの運動はやり続けてきた
自分を保つ方法だと信じてきたからだ
病気や障害に絡み取られて、自分の意思が朧げになって、その中で生きるには重くなりすぎた自分心身を再び動ける心身にする
その歯車を動かすのに
毎日難儀している
動かす力とその方向性を探りながら
たぶん一人では続かないこともわかっているけれども、それ自体も今はまだ霞がかっていてよくわかっていない

病気の思考に乗っ取られて生きるとはそういうことだ
今日は朝も起きれたし大丈夫だ!と思っていても、午後から突然頭も体もメルトダウンするみたいに鬱の霧か、過食嘔吐の欲求がやってくる
まるでコントロールが効かない
いつダメになるかとわからないから、できるときにやっておこうという風に、基本的に言動がせっかちになりがちで、性格の短期さはそこからきている感じがある。
焦燥感とはいつも隣り合わせ。


でも、できる限り自分本位、利己的野心からの行動は避けたい
自己防衛のために作り上げられたエゴからどうしても抜けたい
自分の奥底に内臓された毒をしっかりと出して
私は前進したい
年明けの底付きから
這い上がったときは、もう私は過食嘔吐しないと思ってた
けどそれも3日坊主で終わった
その後2日眠り潰した
また鬱がやってきて、感じたくない、無力感。起き上がって今日を始めたいのに、ベットに拘束されたかのような動かない体。脳内を跳ね回る希死念慮。行場のないこのままだと駄目になるという感覚、焦り、恐れ、不安


処方薬を飲んで、思考が変わるのを待って頑張って起きる
その耐え難い重さ
耐え難い鬱の状態で、体はオートマティックに鉄の掟、Yogaと掃除をする
そこに心はのかもない
自分から自分を守るために、解離する
そうやって生きてきたように思う
でも、もうそれも十分だ。


過食嘔吐に奪われる体力気力がここまで酷いということは最近わかった
20年、わからなかった
わかりたくなかった
止まったら終わりだと思って、法に触れない範囲でなんでもやった
人間失格と感じるようなこともどれだけあったことか・・・
自分が疲れ果てているのに気づいてあげることもせずに、回復するための休みをとることもせずに、その罪悪感から逃れるために自分に嘘を沢山ついた
だから、私を取り巻く世界はとても酷かったし、脆かった。
この世の地獄みたいに世界が歪んで、周りの人が全員悪人に見える、聞こえる。
善意の言葉すら、心の網目からダダ漏れしていた。

介護の仕事をしていたころ、恩師に紹介されて読んだ本に「全員悪人」という本があった。認知症の人の思考や感じ方が明記されたとても読みやすい本だったけれども、私がずっと感じてきたことがそのまま書いてあるように共感して読んだ。
苦悩のあり方が違う人のことを私のこととして読んだ。フラッシュバックなどがおきにくく、共感できるとこらを素直に読める分、以外に、自分と距離がある人の言葉が入りやすいく、気づきをもたらしてくれるもあるように感じる。

こちらの著書です

以前ほど酷くないけそ、今もどこか自分の思考から逃げるように
生きているところが否めない
自分が作り上げた負の幻に人生をダメにされたくない
マインドフルネスも続けているけれども、自分の思考を眺めるということは
とても難しいスキルだなあと感じる
でも練習すればきっと身につくと信じたいから続けている

私は何でも初めからできたことなんてない
努力するしかない人
だから人からは徒労に見られても、私は努力する
でも、もう辛いのも鞭打つのも嫌だとも感じる


自分を殺すのはいつだって自分だ
辛すぎる囚われが、摂食の病の奥義
生きている限りついてくる
私の摂食障害は私が死ねば消えるだろう
でも、私は生きたい
死にたいと言う言葉でしか自分は生きたいのだと表現できないほどの、視野狭窄さ
これも、病の障害の仕業なのだろうか

私の世界はこれだけなのか
そんなの嫌だ

せめて最後くらい笑って死なせてよなんて考える
だから多少無理をしても会いたい人には会いに行くし
やりたいことはやってあげたい
病と障害に、絡み取られたくない
物事をポジティブに感じたり、受け取り方の訓練はこれからも続けていく

今日が最後の日だと思って。

そうするしかない
生きていて、よかったと思える瞬間や出会いがあると信じたいから
変化を恐れるのでなく楽しみたい


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