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統合失調症の私、いつもの低山に登り初めてウインナーを炒める

私は昨日と今日で富士登山をする予定だったが、コロナが流行り始めたためキャンセルした。その代わり近場の低山に登ろうと思っていたが昨日は雨だった。しかし、今日は晴れた。冷蔵庫には富士山頂で炒めて食べようとしたウインナーがある。私はウインナーをザックに詰めて車に乗った。

いつも登る低山の登山口は自宅から車で十五分ほどの所にある。寺の駐車場が登山者の駐車場にもなっている。この山は登りが一時間程度かかる標高五百メートルほどの山だ。近くに海がある。麓の標高が低いため、かなりの高度感が楽しめる。だから飽きることがない。

木漏れ日が良い

今日はお湯を沸かす予定がないので水は持って行かなかった。そのためザックが軽かった。水を持たずに山に行くのは危険であるが、飲み水はペットボトルのお茶を二本持って行ったから心配はなかった。どうせ一本飲み切らずに降りて来るのはわかっていた。私は山に登るとき、山頂で景色を見ながら昼食を食べることを目標としている。今日はコンビニで買ったおにぎり二個と富士山頂で食べるために買ってあったウインナー一袋だ。ウインナーを炒めるために小瓶の油を持って行った。この小瓶はワンタッチで開いてしまうため、他の小瓶が欲しいのだが、おにぎりを買ったコンビニで見た栄養ドリンクの小瓶が良さそうだった。蓋がスクリューになっていればザックの中で開いてしまう心配はないだろう。

アジサイがまだ咲いていた

登りながら、昨日、私の記事にスキを送ってくれた人の記事のことを思い出していた。その方は大学生の時にバイクでアメリカを横断したり、アラスカの河をカヌーで何週間もかけて下ったりと、豊富な冒険談を持っている方だった。私もそういう人生に憧れていたのだ。それなのにマンガ家になりたい、有名になっておカネが入ったら世界旅行をしたいなどと思い、その結果、高校二年で統合失調症に罹り、大学時代はバイトもできない読書ばかりするインドアな青春を過ごしてしまった。今は介護士をしながら小説家を目指し、登山を趣味としている。そして、アウトドアのプロでもないのに、統合失調症で引きこもっている方にアウトドアを勧めようとこのような文章を書いている。上記の方と比べると、私の記事など「富士登山に行こうと思っています」「コロナだから辞めました」などと、ちまちまとスケールの小さいことを書いているので情けない。しかし、統合失調症で引きこもっている方にとっては、スケールが小さい方が身近に感じられるのではないだろうか?上記の方は、アラスカの河でサケを釣って食べたりとまるで異次元だが、私はウインナーを炒めるだのなんだのと細かいことを書いている。外でウインナーを炒めるには、クッカーと呼ばれる鍋とどんぶりを一緒にしたような金属製の器と、ガスボンベ、ガスコンロ、ライターがあればすぐにできる。これらの道具はアウトドア用品店、登山用品店で売っている。わからなければ店の人に訊けば教えてくれるはずだ。そう言うとたぶん、初めての登山用品店に行くのは勇気が要る、と思う方もいると思う。しかし、そういう初めてに挑む気持ちからすでにアウトドアは始まっていると考え楽しんで欲しい。

夏の緑は良い

私は最近こんなことを考えた。歳を取るほど時間の進むのが速く感じるのはなぜだろう。そこでこんな計算を考えた。十五歳にとっての直近五年間は人生の三分の一である。いっぽう、六十歳の人生の三分の一は二十年間である。ということは、六十歳の直近二十年間、つまり四十代五十代は、十五歳にとっての五年間と等しいのではないか?これは世紀の大発見だと私は興奮した。しかし、すでに同じことを述べている人がいるのではないかとネットで調べたら、なんのことはない、十九世紀のフランス人でジャネーという人が発見していた。しかし、私は自力でこの法則を発見したことを誇りに思うことにする。この法則はようするに若い時ほど初めての経験があるために人生の密度が濃いのだ。裏を返せば、歳をとってからも新しいことにチャレンジし続ければ、少しは時間を長く感じることができるに違いない。私にはしたいことがいっぱいある。富士登山。日本の山々を登ること。海外旅行。国内旅行。スキューバダイビング。結婚・・・いや、結婚って・・・!
そう、私は結婚したい。出来れば子供が欲しい。今日、山を歩いていてそんなことを考えた。この低山の峠は、私が三歳か四歳の頃、家族みんなで歩いて越えて海まで行ったことがある。おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さん、弟、そして私でお弁当を持って越えた。その際、峠を越えた辺りでお弁当を食べようということになった。そこは茶畑の狭い斜面で、私はこんなところでお弁当を食べるのかと躊躇う気持ちがあったが、結果として死ぬまで忘れられない思い出になっている。その祖父母も今はもう亡い。遠足とはどこに行くかも大事だが、誰と行くかももっと大事だと思う。現在私はひとりで山登りをしている。仲間はいない。私は一人旅に憧れた人間だが、しかたなく独りというのはいけないと思う。思い出の中に、誰かがいるのはやっぱり良い。誰と生きるか?結婚したいというのはそういう所から出た思いなのだろう。
今日山頂でウインナーを炒めて食べた。一人だが楽しかった。これが二人あるいは三人、四人、それ以上ならばもっと楽しいのかもしれない。しかし、私は病気柄、複数でいると何を話して良いのかわからなくなってしまう。このようにnoteに自分の思うことを書く場合や、誰かに自分の考えを述べる場合などは言葉が出てくるのだが、宴会の席などでは「だんまり」となってしまう。宴会は何が楽しいのだろうと、その場に居ながら第三者の目で見てしまう。本当はその中に溶け込めれば楽しいことはわかっているのに、溶け込めない自分がいる。そのくせ登山中などは宴会の席でしゃべっている自分を空想しているのだ。これは私の課題だ。

夏だな~

学校では、文章の書き方は教えてくれる。論文の書き方は教えてくれるかもしれない。しかし、宴会でのはしゃぎ方は教えてくれない。私はもともと、友達といるとその中心になってはしゃぐ子供だった。それが、中学生の頃、マンガ家を目指し始めた頃から変わってしまった。今では小説は書ける。原稿用紙三百枚の小説は普通に書ける。しかし、宴会でしゃべることはまったくできない。こうして、統合失調症の方にアウトドアを勧めるなど偉そうなことを言っているが、まだ私も道半ばだ。人生のひとつの考え方として、その目的は人格の完成にあるというものがある。そうだとしたら、こうして登山をして文章を書いていることも、人生を前に進んでいることになるのだろうと思う。登り慣れた低山も、ウインナーを炒めるという初めてを加えれば、また新しい体験になる。先にも述べたように初めての経験は人生の密度を上げる。初めてにチャレンジし続けて豊かな人生を生きたいと思う。


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