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人称の死について

最近、ジャンケレヴィッチという人の「死の人称性」を知った。と言っても彼の論文を読んだわけではない。
私は哲学書を読むと、精神の病に影響するので読まないことにしている。しかし、書くのは好きだ。だから、今回も書いてみようと思う。
私が知ったところでは、彼は死には三種類あり、他人の死である「三人称の死」、親しい人の死である「二人称の死」、そして、自分の死である「一人称の死」とある。
そして、一人称の死は経験不可能な死であるらしい。
しかし、よく考えてみると、この三つの死に分類しているジャンケレヴィッチ、もしくは私は、何人称なのだろう?
冷静に死の種類を分析しているところからして、明らかに三人称の私である。
と言うことは、一人称の私は私の有り様の一形態であるに過ぎない。私は死ぬとき一人称になるのだろうか?そのとき、三人称の私や二人称の私は「すでに死んでいる」のか?
そういえば、ハイデガーの『存在と時間』は徹底的に一人称の語りだったような気がする。
ハイデガーもそうだと思うが、一人称の私は死を不安に思う。恐ろしいと思う。逆に言えば不安に思い、恐ろしいと思うのは、死そのものが原因ではなく、一人称的な私の在り方が原因なのではないだろうか?それはハイデガーが「時間」に注目したように、我々は過去から直線的に流れる時間の中に生きていると考えがちであり、そのために迫り来る死に不安を感じる。現代ではニーチェの影響もあろうが、「一度しかない人生、悔いの無いように生きよう」などというのが、当たり前みたいに、社会通念となっているように思える。これは一人称の思想の帰結だと思う。
しかし、仏教では、ブッダは死ぬとき涅槃に入ると言っているらしい。つまり解脱だ。解脱とは輪廻から抜け出すことであり、永遠の静寂とも言えるニルヴァーナに入ることだ。これはヨーロッパ風に言えば、時間から抜け出すことで、そこでは生も死も等価である。これはジャンケレヴィッチ風に言うと、三人称の視点で一人称の死を見ていることにならないだろうか?仏教では死を不安に思うことは煩悩に囚われているからだと説く。煩悩を滅ぼせば生きていても死んでいても差異はない。


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