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鳥山明を悼む。マンガ家と編集者、小説家と編集者

私は昔、マンガ家を目指していた。
いつも鳥山明をかわいそうに思っていた。
『ドラゴンボール』は描き始めた頃は作者も楽しんでいたように思えるのだが、宇宙一強いフリーザを倒したあと、私は「まだ続くの?」と疑問に思った。だって、宇宙一強い奴を倒したのにそれより強い奴が出てくるのはあきらかにおかしかった。私はその頃中学を卒業する頃だったと思う。もう『少年ジャンプ』を買うことはやめ、『ドラゴンボール』も遠目で見て時々読むくらいで、楽しみにはしなくなった。私も大人になりつつあったのだろう。魔神ブウとか、もう全然面白く感じなかった。私は「ああ、売れているから、編集部に描かされているな」と感じた。最終話を読んだとき、最後に、「前からやめたいと思っていた」という旨の言葉が書かれてあった。あれはジャンプ編集部の罪で、ひとつの素晴らしい才能を潰してしまったと私は思う。あれ以降、鳥山明はストーリーが書けなくなった。ただ、ドラクエとかドラゴンボールのキャラクターデザインで生きていたように私には見えた。素晴らしい絵と面白い物語を書ける希有な才能をジャンプ編集部は目先の利益のために潰してしまった。『ドラゴンボール』はドラゴンボールを作った神が出てきた時点で終わるべきだったと思う。私は今、小説家を目指しているが、物語を書くとき、いつも気をつけることは、『ドラゴンボール』の失敗から学んだことだ。つまり、「最低限やってはいけないことを設ける」ということである。私は「死んだ人間は生き返ることはない」ということは守るようにしている。「最低限守ること」とはその物語が、どういう哲学的な世界の中で展開されているかのルールを設けることである。そのルールを編集者が壊すようなことを注文したら、作家はきっぱりと断らねばならない。だいたい、編集者が物語の中身まで口を出すのは芸術家の尊厳を冒している。芸術とは繊細なものだ。心の中の大切な部分を露出する行為である。そこに編集者などが注文を出すことは、芸術家の繊細な部分に土足で入り込むことである。編集者は芸術家ではないのである。芸術家と編集者の共同作業と言えば聞こえはいいが、書いているのは作家である。編集者は書かれたものを出版して公にするのが仕事であり、芸術作品を作ることが仕事ではない。
私は物語とは、二時間くらいで終わる一本の映画くらいの長さがちょうど良いと思っている。鳥山明がもし、『ドラゴンボール』など描かず、そのような映画一本分の物語をマンガで描き続けていたら、世界はもっと違ったものになったに違いないと思う。
そう世界だ。
私の小学生時代の世界観に『ドラゴンボール』が無いことは考えられない。それほど大きい存在だった。
鳥山明氏のご冥福をお祈りいたします。おつかれさま。

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