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統合失調症精神障害者の社会参加を考える

「なぜ、障害者が健常者のライフスタイルに常にあわせなければならないか(あわせる必要はないではないか)」という、noteで出会った方の言葉に非常に胸が打たれました。私はこのnoteを書き始めたのは統合失調症からの心のリハビリを考えることが目的でした。私は統合失調症の心のリハビリとしては健常者の世界で働くことが近道だと思ってそのことについてたくさん書いてきました。周囲には自分が障害者であることを隠し、周囲を騙し、自分を騙すことが肝要かと思ってきました。実際、私はそうしてきました。たしかに効果はありました。周囲が自分を健常者として捉えて話してくれることと、それに対して健常者として答える自分という関係のやり取りは、かなり効果的に私の精神病を癒してくれました。だからこそ、心のリハビリを考える際に、「働くこと」を書くことにウエイトが置かれていました。私の「心のリハビリ」の思想は、本当は精神病を発症した時点かその前から始まるものだったはずです。それなのに、私自身が「働くこと」でずいぶん良くなったので、「心のリハビリワーク」などという言葉も作ってそれについて書いてきました。ようするに、私の考えでは「ふつうに生きる」ことがなによりの心のリハビリになると思っていました。現在での「ふつうに生きる」とは、学生か社会人か年金生活者かくらいにしか分類できません。障害者は学生や社会人として生きられない、生きにくいと感じる人たちです。健常者のふつうの生き方、社会からは脱落していく存在と言えます。それを脱落しないようにする、あるいは脱落してから復帰のサポートをする、それが障害者福祉です。私はソーシャルワーカーとして、障害者の権利を守らなければならない立場であるのに、自分の当事者としての経験から、現在の日本社会を生き抜くには、統合失調症の人は病気を隠し、健常者として生きていれば病気も良くなるという、いわば現在の健常者中心の社会を逆に利用して心のリハビリに生かそうという発想ばかりで論じできました。障害者にとって、人生は一度きりです。社会が障害者への偏見をなくし障害者がふつうに幸せに暮らせるユートピアを待っていては、自分の人生は終わってしまう、そんな私の危機感から、現在の社会の中で生きるために現在の社会を利用できないだろうかと考えたのが私の心のリハビリという思想の構えでした。そこには精神障害者への偏見をなくし、誰もが住みやすい社会にしようという発想はありませんでした。つまり、私の考えてきたのは特効薬であり、社会そのものを変えようという方向性ではありませんでした。その思想の根底には「ユートピアは存在しない」というものがありました。社会というのは必ず問題があり、少しずつ改革して良くなっていくものです。
 
今回は統合失調症の精神障害者の社会参加について考えてみたいと思います。そこで私が思うのは、はたして、障害者として社会参加することは心のリハビリとしてどうだろうか、ということです。私の上記の思想では、健常者というか「ふつうの人」としていや、大橋太郎なら大橋太郎として、大橋花子なら大橋花子として、個人としてみんなが接してくれることが一番の心のリハビリになるのですが、私は社会を変えずにそれをやるには就職し周囲に病気のことを隠して働くのが一番いいと考えました。しかし、社会を変えていくという視点では、まず、社会が精神障害者というか、障害者を「ふつうの人」と見るようになることが喫緊の課題だと思います。私が「隠せ」と言った理由はここにあります。「私は精神障害者です」と言うとスティグマが生まれてしまいます。スティグマとは「烙印」のことです。周囲が自分を障害者というスティグマを意識しつつ話しかけてきたらどうでしょう?きっとふつうの会話は成り立たず、心のリハビリとしては壁になってしまうと思います。ではどうすればいいか?それは、幼い頃から、全ての人が障害者と身近に暮らしていればいいと思います。そういえば私は障害者という存在と接する機会はなく育ちました。自分が統合失調症になりデイケアに通うようになって初めて精神障害者と友達になりました。それまでは精神障害者というと「凶悪犯罪を犯す人」というイメージが私の中にありましたが、デイケアに行って、ようやくそういったイメージ、つまりスティグマが吹っ飛びました。障害者といっても一人ひとり個性を持った人間なのです。そういえば、社会福祉士の資格を取ってから、福祉の講演会などに参加するようになり、「浦河べてるの家」の向谷地生良さんの話を聴いたのですが、彼の家には精神障害者が普通に出入りしていて、娘はそれが当たり前の環境で育っていて、ある日テレビで精神障害者が凶悪な犯罪を行ったというニュースが流れたときに、「ねえ、精神障害者ってどんな人?」と言ったそうですが、隣には精神障害者が何人か一緒にそのテレビを見ていた状況だったという半ば笑い話です。このように幼い頃から障害者と接していれば、障害者を障害者として見て「人」と見ないという事態は避けられると思います。私が幼い頃は、障害者は養護学校など「ふつうの」学校ではないところで教育を受けていました。現在も「特別支援学校」と名前を変えて存在しています。私は現在の学校を知らないので、すでに取り組まれていることかもしれませんが、障害者と同じ教室で学び、共に休み時間を過ごす、そんな機会を作ることが大切だと思います。幼い頃から障害のある友達がいれば、障害者に対する偏見はなくなると思います。しかも、たくさんの様々な種類の障害者の友達がいればいいと思います。
 
しかし、学校だけが変わるのではいけないと思います。冒頭で引用した「なぜ、障害者が健常者のライフスタイルに常にあわせなければならないか」という言葉に胸を打たれたのは、現在の社会制度そのものが健常者中心に作られた社会制度であり、その制度では障害者は必ず脱落してしまう、つまり、「働かざる者、食うべからず」の社会制度が悪いのではないかと考えたからです。もちろん生活保護という最低限度の文化的生活が保障されています。しかし、なぜ最低限度なのでしょうか?しかも、生活保護を受けるには様々な条件があります。もちろん大きな家には住めません。生活保護を受けるには大きな家に住んでいた人は住み慣れた家を出なければなりません。他にも様々な条件が課せられます。車を持つことさえも条件が付けられます。これは怠惰な人を働かせるためにある制度だと思います。しかし、障害者で働いていない人は、怠惰で働かないのではなく、働けないのです。私は統合失調症で通院始めた頃は、親と暮らしていて、学校にも行かず、仕事もせず、午前の十一時くらいまで寝ていたような記憶があります。夜更かししていたのですが、そもそも眠れないのです。漠然とした不安を抱えていて夜眠ろうとしても、ばっちり目が覚めているのです。そのとき考えるのは「死んではいけない」ということです。結局薬を飲んで眠りに入っても、起きるのが辛く、起きて地獄のような一日をまた始めるか、それとも悪夢でも夢の中にいるか、それとも死ぬか、などと考えながら、布団の中で何時間も過ごすのです。それは怠惰でしょうか?私は現在働いていますので、働かない障害者が自分と同じ暮らしをしていたら、「なぜだ?私はこんなにがんばっているのに、全く働いていない人がなぜ、私と同じ生活が出来るのか?」と思う気持ちもわかります。しかし、それは健常者中心の考え方です。資本主義の考え方と言ったらいいでしょうか。共産主義では、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」社会を目指しているそうです。現在、共産主義政党が政権を握っている国は独裁国家が多いと思います。私は政治には素人ですが独裁国家は悪い国家体制だと思います。マルクス・レーニン主義では、「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る第一段階」を社会主義としているそうです。そして、上記のような共産主義社会に社会は進化するらしいです。しかし、その過程で、一党独裁になることはまずいと思います。と言っても、だから共産主義より資本主義が優れていると考えるのは早計な気がします。資本主義は先に述べたように、障害者に冷たい社会です。共産主義は能力に応じて働き、必要に応じて受け取るわけですから、障害者には優しい社会と言えると思います。では、世界は共産主義社会になればいいのでしょうか?私は共産主義社会がどんな社会かは勉強不足で知りません。これから勉強していこうと考えています。しかし、先に述べたように私はユートピアは来ないと考えています。悪はどんな世界でもあると思うからです。そもそも共産主義社会になれば統合失調症はなくなるのでしょうか?私の考えるのは統合失調症からの心のリハビリです。とりあえずは障害者が社会参加しやすい社会になればいいと思います。そのためには障害者と健常者の共生が必要だと思います。学校での共生を進め、仕事の場でも共生を進めなければならないと思います。現在、企業が障害者を雇わなければならない法定雇用率は2.3%です。これは100人中2.3人が障害者でなければならないという法律です。100人社員のいる会社で3人が障害者であるという光景を想像してください。あきらかに、障害者は特別な少数者でしょう。しかし、心のリハビリを考える私が考えるべきは、この法定雇用率を満たすために雇われた精神障害者は、精神障害者として他の社員に見られるか、「ふつうの人」として見られるかで、全然違うということです。また、法定雇用率があることはやはりいいことだと思います。しかし、特例子会社というのがあるそうですが、そこに障害者を集めて働かせ、企業全体の法定雇用率に入れてもいいという制度がるそうです。これはつまり1000人の社員がいる中で、23人の障害者をひとつの子会社に集めて働かせるというものです。これはまったく共生にとって意味のないことです。統合失調症の人にとっても心のリハビリになりません。混じり合うことが大切なのです。混じり合うことでスティグマがなくなり、統合失調症の人も普通に接してくれることで、自分を「ふつうの人」と認識して病状が良くなっていくのです。
いや、ここで気づいたのですが、法定雇用率の話になってきたときに私は、「障害者も働かねばならない」という思想前提で文章を進めてしまいました。これは障害者を健常者のライフスタイルに合わせること前提でした。法定雇用率の知識は社会福祉士の資格試験の勉強で得た知識です。どうも、福祉の勉強をすると現状の福祉界のイメージの中で話してしまいがちです。これでは新しい思想は生まれません。私も当事者ですから、当事者の目線で語ることが肝要かと思います。
 
今回の記事はもうこの辺で終わりにしたいと思います。長いわりにまとまりのない記事になってしまいましたが、統合失調症からの心のリハビリについての話から、社会体制の話など大きな問題を考えることができたと思います。最後に、昔、私が仏教の勉強をしていたときに得た、ブッダの言葉をアレンジした物で締めくくりたいと思います。
 
「目の前に、矢が刺さり苦しんでいる人がいて、あなたはその人を助けるために、ユートピアは必ず来ると語るだろうか?私ならまず、矢を抜いて手当てしてあげるだろう」
 

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