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統合失調症、空白の28年間

私は、1995年、十六歳高二の秋に統合失調症を発症した。
今、2023年四十四歳、治った。
少なくとも、高二の春あたりの発症直前くらいのまだ現実感が残っていた頃に戻ったような気がする。
というのも、先ほど、歌を聴いた。
イルカの『なごり雪』だ。
これは高二の遠足のバスの中で聴いたのを覚えている。
カラオケで歌う奴がいたのだ。
高校生の時は、バスの中でカラオケとなると必ず『なごり雪』を歌う奴がいた。世代ではないのにいた。親が歌ったのだろう。私はその歌の存在をそのカラオケで知った。私の親は全然流行歌には興味がなく私も興味を持つ環境ではなかった。しかし、カラオケが歌えないというコンプレックス解消のため、テレビの音楽番組を毎週見て勉強した。今思えば無駄な努力だったが、高校生などそんなものだ。
で、
先ほど、『なごり雪』を聴き高二のまだ統合失調症を発症していない「まともな」感覚を思い出したのだ。
「まともな」と言っても少し病んではいる。しかし、完全に病んでいるわけではなく、「感傷的な」傾向が強い精神状態と言える。
高二の『なごり雪』と四十四歳今日の『なごり雪』は当たり前だが同じものだった。
その間に空白の28年間があったのだ。
私は『なごり雪』を聴き、空白の28年間をしばし忘れることができた。
この28年間、青春の物語、人生の物語はなかった。
ネガティブな物語には満ち溢れているが、ポジティブな物語、例えば恋愛物語などは皆無だ。
この期間を空白と捉えるかそれとも豊かだったと捉えるかは自分次第だが、私は空白と捉えたいというのが、今の率直な思いだ。これから、恋愛をしたいし、青春をしたいのだ。人生を生きたいのだ。
なるほど、統合失調症を活かすという生き方もあるだろう。
しかし、目の前に本当の人生があるのに、ネガティブな経験にこだわり、病気を活かそうとか、この病気、精神障害の経験を同じ苦しみを持っている人のために活かそうとか、そういうのは過去にこだわる後ろ向きな生き方だ。
ここは思い切って、思い出の断捨離が必要だと思う。
もちろんこの28年間を一切捨てることなど不可能に違いないし、その間に出会った人々との思い出が虚しいものであるとは断じて思わない。
ただ、この28年間は病んでいた期間であり、その「病」は捨てるべきで大事にするべきではないと思うのだ。
28年とは長いものだが、それを「空白」と割り切るのは勇気が要るが、今の私なら出来そうだ。

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