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【短編小説】居抜き物件

居抜き物件
「また建て替え工事してるね」
 駅前のロータリーですれ違ったカップルがそんな会話をしていた。確かに鉄パイプと防塵シートで囲われたビルは、その隙間から古びた内部を晒している。
 あそこには以前どんな建物があったのか、思い出そうとしても曖昧だった。
 昨日の晩めしすら咄嗟に思い出せないくらい、物事に注意を払っていないのだから当たり前と言えば当たり前か。
 自分のバイト先だってそうだ。この前の店、さらにその前の店。
 またその前の店。
 なにひとつ覚えちゃいない。
 この町に生まれ育って、それでもそこが居抜きであることしか分からない。
「お疲れ様です」
 店の裏口から中に向かって挨拶をすると、中にいたのは店長ひとりだった。
 他のスタッフはまだ来ていないのか、休憩中か、俺はあまり好きではない店長と二人きりで労働が始まることにうんざりした。
 店長はそれを知ってか知らずか、わざと裏声でおれに挨拶を返す。
 いつか、殴ってしまうかも知れない。
 ロッカーに荷物を押し込んでから制服に着替えていると、店長は
「今日から新しいバイト来るから、例のやつ説明しといてよ」
 午後イチで銀行に入金行ったら、その足で本社に顔を出すからさと続ける。
 どうせ本社の帰りに泡風呂にでも行くんだろう、いつものコースだ。電話連絡だってつきやしない。おれはため息を噛み殺しながら
「そう言えば、23時になったら一回スタッフが外に出るっての、アレなんなんすか?」
 と訊いた。
 23時をまたぐ前後10分ほどは、誰一人店の中に居てはいけない。
 クローズ作業中であっても中断すること、タイムカードには手書きで30分の残業代をつけて良いということ、新しいバイトにはその2点を伝えれば良い。
 自分もそう聞いた。
 そしてそれに従ってきた。何も不便は無い。むしろラクをして残業代が出るなら儲け物だとすら思っていた。
 ──不思議そうな顔をしながらも、残業代をつけて良いならと言って、新しく来たバイトの学生は裏口から出て行った。
 先ほどの問いに店長は答えなかった。
 俺は誰も居なくなった店内で独り、23時になるのを待った。
 ──ドン
 と何かが物を叩くような音が聞こえた。
 ──ドン、ドン
 辺りを見回す。
 裏口のドアでは無い。机だとか壁や天井でも無い。
 ──ドン、ドン
 その音は冷蔵庫からであった。
 業務用の巨大な冷蔵庫は、言われてみると古い。居抜きとは、この冷蔵庫も含めての事だろうか。
 その冷蔵庫の中から聴こえる。
 ──ドン、ドン、ドン
 まるでだらしなく手をぶつけているだけのような、力のこもっていない音が、古びた冷蔵庫から、断続的に聴こえてくる。
 ──怖い。
 だがそれが何なのか識りたいと云う欲求が勝る。例え喉が渇いて張りつき、睾丸が縮み上がっていたとしてもだ。
 おれは冷蔵庫に近寄り、取っ手に指をかけた。
 ひとつ息を吐いてから、思い切ってドアを引くと、中にはぎっしりと人が詰まっており、その全員が眼を見開いておれを見ながら「ゆめゆめわすれるな、いずれはおまへもここにはいるのだ」と言うと霞が散る様に瞬く間に消えた。
 そう言えばあそこにいたのは前の店をやっていた老夫婦で、その奥にいたのはヤンチャっぽいバーを経営していた若者、その更に奥にいたのは無口なラーメン屋で……。
 おれは冷蔵庫の中に入り、内側からドアを閉めた。
 心地よい闇が覆いかぶさる。
 娑婆訶、と呟いてそれがどんな意味かも分からないまま、そっと意識を手放した。

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