花について。

ぼくは神保町へ行く機会がやや多いので、地下鉄駅改札外の青山フラワーマーケットをよく眺める。花屋もまた店ごとに品揃えが違うもの。さすが青山フラワー、土地代のバカ高い本店で立派にご商売をされているだけあって、カラフルで人目を惹く吸引力の高い花々が並んでいます。ガーベラ「トーピード」、カーネーション「ド・ペドロ」「エクレア」「グラニジュール」、あじさい「ブルーダイア」、「シルクサファイア」、白薔薇「アヴァランシェ」・・・たいへん人工的な美がそこにあって、それもまたぼくはけっして嫌いではない。花の最前線でもまた遺伝子組み換え技術が多彩に駆使されていて。いまや青い薔薇を作ることさえできる。


薔薇は世界に広く咲き、しかも種類が膨大にあって。そのうえ(薔薇に限らないことながら)微妙に個体差もある。あれこれさまざまな薔薇を見ていると、いつしか自分の脳内の薔薇の形のイメージが崩壊してしまう。SMAPの「世界で一つだけの花」が流行った頃、養老孟司さんは冗談混じりにおっしゃった、「どこに咲いている花だって、みんな世界でひとつだけだよ。世界でふたつある花があったらおれんとこへ持って来い!」


低層の住宅地を歩いていると、家の前に花の鉢を置いている家を多く見かける。この家の人は花が好きなんだなぁとおもうこともあれば、他方でここんちの人は「花のある暮らしって素敵でしょ♡」とアピールしているだけでべつにそんなに花のこと好きじゃないだろ、ってバレる家もある。



東京ではつい先週までツツジが綺麗に咲いていたもの。満開の白いツツジは美しい。しかもツツジはああ見えてたくましいので、道路の中央分離帯でさえもけなげに咲いている。やがて盛りの時期が過ぎるとツツジもしおれはじめる。まだ5月初旬だというのに、(今年は季節が前倒しゆえ)すでに東京のツツジは無惨でむごたらしくなりつつある。こういうことを言葉にすると、なにかの比喩か、とおもわれそうだけれど、しかし、ぼくはただ自然とはそういうものとおもうだけである。


ぼくは散歩中に咲き誇ったツツジを見かけるとひとつ花をちぎって食べることがある。ほんのりかすかに蜜の味を感じるとはいえ、とくにおいしいわけでもない。ぼくはただ花を食べるという行為に、詩的なものを感じているだけだ。ツツジにとっては迷惑なことだろう。


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