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「マクロン大統領はキャフェのギャルソンを演じるギャルソンだ」と、ある作家は注意を喚起した。

文学者のジェローム・ルロワJérôme Leroyの言葉としてフランスのサイト”Marianne”の記事に引用されています。かれは批判する、「マクロンはキャフェのギャルソン以外の何者だろうか? 気をつけろ、かれはただのギャルソンではなく、ジャン・ポール・サルトルが『存在と無 L'Être et le néant 』(1943年)で描写したギャルソン、つまりギャルソンを演じるギャルソンなんだ。」サルトルの言葉を聞いてみましょう。「かれはオーヴァーなジェスチュアをして、ちょっと正確すぎて、いくらか速すぎて、いささか生き生きした足取りで客に近づいて、ちょっと急いでお辞儀をする。」



「わたしはカフェの
ギャルソンではありません。」



ここでサルトルの『存在と無』が召喚されるところがさすが哲学の国である。なお、サルトルは対独戦争によってナチス・ドイツにフランスが支配された時期に、書き手としての自分自身を作り上げた人です。サルトル流に言えば、世間には二種類の人間がいて、一方に自分の存在と自由を意識している人間がいて、他方に世間の目を意識して世間のために存在する(マクロンのような)人間がいる。そもそもあらゆる動物のなかで人間だけは誰もに定まった固有の本質が存在しない。(実存が本質に先だっている。)ただし、人はみんな選択の自由を与えられていて、人は誰もが自分で自分自身を作り上げるものなのだ。人は時間の継起のなかで、きのうはきょうになって、生きてりゃあしたになるものだ。しかし、ただだらだらと生きてるだけでは生きるに値しない。そうではなく、過去の自分から脱し、過去の自分を超え出ることで、過去を無にしながら生きてゆくのである。人間には選択の自由がある。もちろん自由には責任がともなう。「人間は自分自身に責任を持つと言う場合、それは人間が厳密な意味でのかれ個人に責任を持つということではなく、むしろ全人類に対して責任をもつと言う意味なのである。」これはめちゃめちゃ厳しくおっかないお言葉ですが、なるほど、「未来を作り出すのはわれわれであり、われわれの一挙手一投足が、未来の輪郭を描き出すのに貢献する」ということであって。ほとんどマクロンのために書かれたような文章ですが、しかし、なるほど厳密に考えるならば誰もに言い得ること。(余談ながら、大江健三郎さんがいかにサルトルの思想を内面化して人生を生きたか、わかろうというものです。)



もう少していねいに言いましょう。サルトルは指摘する。人間というものは自分自身が定義する自己と、他人のまなざしによって他人によって定義される「自己」がある。たとえば恥(や高慢、怖れなど)の経験は、他人のまなざしによって定義された「自己」を自分自身が引き受ける経験なのである。なお、サルトルは対独戦争(第二次世界大戦)で捕虜になってますからね、さぞや悔しいおもいを経験し、屈辱を味わいもしたことでしょう。(『存在と無』は釈放後に書かれています。ただし、ナチスドイツ占領下での出版ゆえ、文中にナチスドイツの影は周到に取り除かれています。)捕虜を経験すれば、他人のまなざしがいかに残酷で暴力的なものか身に染みることでしょう。とうぜんそんなとき人は自分のまなざしで世間を「まなざし返す」必要が生れます。ここに哲学が立ち上がる契機がある。



なお、自分が使うにせよ、他人が使うにせよ、言語は認識にとって必須のもの。ただし、言語は自分と対象のあいだに距離を作り出し、しかも言語は(ろくでもない信仰の一形態であるところの)自己欺瞞 auto-illusion の道具になりかねない。自己欺瞞とは(みずからの自由と責任を放棄して)社会的に構築された役割演技に徹することである。つまり、かれは社会が自分に期待する役割演技を提供するだけの操られ人形になり果てる。



サルトルとベルクソン



もちろん現実のサンジェルマン・デ・プレのキャフェのギャルソンはこの見解に反論するでしょう。もしもギャルソンがギャルソンに期待される役割演技を逸脱するような存在になってみろ、即座に勤務評定が悪くなるのがオチだ。おれらはあんたのおっしゃるところの自己欺瞞によっておカネを頂いてんの。他方、あんたなんて(フランスがドイツに占領されて、あちこちの公共施設にナチスドイツの旗が掲げられるなか)、キャフェでひっきりなしにゴロワーズを吹かして、黒のモレスキンに哲学的文章を書きつけ、解放思想を口実に女たちを手あたり次第に口説いちゃって、奔放な恋愛の自慢話をして、仲間をおちょくる放言を愉しむ男。戦後、この個人主義的で自己陶酔型の男は1945年にレジオン・ドヌール勲章を辞退した。(サルトルの言い分は自分は社会主義を支持し、西側と東側の平和的共存を夢見ているゆえ、どちらか一方の側の国家からの賞をもらうわけにはゆかないのだった。)1964年、サルトルの作品”Les Mots-言葉”にノーヴェル文学賞の打診があったものの、しかしサルトルはノーヴェル賞をブルジョワ的虚栄心の象徴と見なしてかっこつけて拒否した。サルトルは毛沢東思想にまんまと騙され、1968年のパリの五月革命では闘う学生たちを支援した。なるほど、あんただって1年3か月兵役についたこともあれば、対独戦争(第二次世界大戦)で35歳の誕生日に捕虜にもなって屈辱を味わいもしただろう。あんたはドイツに占領されたフランスで(そこそこうまく立ち回ったとはいえ、それでも)不遇な知識人の一員ではあったろう。しかし一度も労働したことのないチビ(身長153センチ)の文化左翼系スター哲学者の分際で、おれらの仕事にシのゴの言うんじゃねー!!!




まったくもってそのとおりとはいえ、しかし、サルトルのこの見解は(第五共和政8代目大統領の)マクロン(グローバリストの手先で、かつまたいきなりウクライナ支持を表明し、フランスを混乱に導いているそんなかれ)を批判するにはふさわしいものでしょう。フランス人の大多数はマクロンのことを理解しています。マクロンがフランス人の治安を保障していると考えている人はフランス人の3割に過ぎないという調査結果も出ています。すなわち、もしも大統領がカフェのギャルソンであったなら、それは亡国ということですよ。



なお、マクロンに対する批判には移民問題が絡んでいて、はやいはなしがフランスはいったいどこまでムスリムを受け入れるべきなのか、という厄介な問題が顕在化しています。かつてマクロンは言った、"Il n'y a pas de culture française. Il y a une culture en France. Elle est diverse."(フランス文化というものはない。フランスにはひとつの文化がある。それは多様性である。)いかにもグローバリストらしい悪魔的発言である。元ロスチャイルド銀行の投資家マクロンが誰の手先だかわかろうというもの。なお、フランス人口6000万人における移民割合は10.3%。ただしパリでは人口の6人に1人が移民です。対独戦争によってナチスドイツに支配された経験を持つフランスはいま新たな「侵略」を受けている、とフランス人が見なしたとして不思議はありません。



ついでながら英国は移民14%、ロンドンに至っては3人に1人が移民です。なお、英国首相はRishi Sunak氏であり、かれの両親はアフリカから移民して来たインド系です。また、ロンドン市長はパキスタン系イギリス人でムスリムのSadiq Khan氏です。



他方、日本はいまのところ人口1憶2400万人中の移民割合は1.3%、東京都は3.59%ながら、いまや日本の外務省が移民受け入れにひじょうに積極的で、しかも政府は国家戦略特区として、東京~神奈川全域、千葉市成田市、はたまた大阪、京都、兵庫、そして福岡が指定されています。いまや日本は移民受け入れ国世界第4位。しかも中国共産党がまた日本への移民を推奨しています。これから日本がどんな国になってゆくのか、まったく他人事ではありません。ぼく自身は個人的には街にあれこれの外国人を見かけることを楽しむとはいえ、しかし外国人定住者が一定数以上増えれば、あれこれ混乱や問題が生れることは目に見えていて。じっさい新大久保、池袋、上野、川口市はもはや外国人に乗っ取られ、築地場外は外国人観光客天国です。都内のコンビニバイトの若者たちもひじょうに外国人率が高く、むしろ日本人バイトの方が少ないほど。




余談ながら、「第五共和政の大統領のなかでもっとも音楽を愛している男」とプレスにおべっかを使われないでもないマクロンの好きな音楽は、まずはロッシーニ、準じてバッハ、シューマン、リスト、そしてCharles Aznavour、Léo Ferré、そしてかれがジョニーと呼ぶJohnny Hollydayである。いつの時代のフランス人かよ、あんた1977年生れ現在44歳だろ、と呆れる。マクロンがお勉強ばっかして育ったエマニュエル坊やだったことがよくわかります。


また、世界がむちゃくちゃになるとサルトルがリヴァイヴァルする傾向がありそうだ。いま、サルトルはふたたび読まれはじめています。



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