ありがたい人は"有り難い"

「ありがたい」という言葉をスマホで入力する時、予測変換で「有り難い」という漢字表記が出てくる。それを見ると、「ありがたい」という言葉は「有ることが難しい」という語源から生まれていることを実感する。だから私はこの「有り難い」という漢字変換が割と好きだ。

ここで、15年ほどの長い付き合いがある友達について話したい。

彼女は小学校、中学校、高校までが一緒だった友達で、大学からは進路が違ったけれど、定期的に会うくらいにはまだ関係が続いている幼馴染である。誰とでも仲良くなれる明るさを持ちつつも、実は結構ドライですっきりしたところも持ち合わせた性格の人で、話すテンポやリアクションなどが私と似ているためか、とても居心地が良い。

小学校の頃から今までというと、いろんなことがあった。

彼女とは中学でぐっと仲良くなったので、帰り道に一緒に歩いて帰ったりもしたし、同じ部活だったので毎日のようにくだらない話をして大笑いしたりもした。私は彼女の笑顔を毎日見ていたし、彼女も私の楽しくて仕方ない笑顔をたくさん見てくれていただろう。

その反面で、彼女は私の悲しい部分や辛い部分も見ていた。学年で有名ないじめっ子に目をつけられていた話も知っているし、私の両親の不仲や家庭環境の話も知っている。高校時代には、酷い鬱になってしまって学校に行けなくなってしまったことも間近で見ていた。

小学校からの幼馴染がどんどん酷いうつ病になって学校に来れなくなっていく様を見ていた彼女は、何を思っていただろうか。彼女は必要以上に「学校来なよ」と言わなかったし、「何が嫌なの?」とか「何が辛いの?」とか、根掘り葉掘り聞くこともなかった。私が寝不足の顔で学校に行ってぼんやりしていても、彼女はいつも通りにおもしろおかしい話をしてくれていた。学校に行けなくなった私から距離を置いたり変な顔をしたりせず、いつもと同じ空気を作って待っていてくれた。そんな優しさがありがたかった。

学生じゃなくなった今でも、彼女との関係は同じように続いている。

大学卒業の頃、再び鬱が酷くなってしまって就職ができなかった私は、そのことをとても気にしていた。アルバイトすらできないくらい不安定な心身の状態で、就職活動なんてもうできなかった。だから、他の友達から興味本位で「今何してるの?」と聞かれるだけでも辛かったし、「早くバイト探しなよ〜」と軽いノリで言われるのも苦痛だった。それが嫌で、人と会うのも嫌になってしまって、友達と出かける前日の夜になると酷く不安定になった。

だけど彼女は、「今何してるの?」とか「早く働きなよ」とか、他の人たちと同じようなことは言わなかった。

いつものように何気ない話をおもしろおかしく話してくれて、必要以上に質問したりしなかった。だけど、繰り返し彼女と会っていく中で、「良かった、バイト決まったんだね」と言ってくれて、心配してくれていたことが伝わってきた。遠回しに「お母さんとはあれからどう?」とやんわり聞いてくれたりもして、人に悩みを相談するのが下手な私が話しやすいように誘導してくれたりもした。他の人には話せないことも彼女になら話せるし、他の人が理解してくれない気持ちでも彼女なら分かってくれるのだった。そして時には「それはおかしいんじゃない?」と注意もしてくれる。そんな彼女の優しさが、私にとってはとても安心感があってあたたかくて、ありがたかった。

「有り難い」という漢字を見る度に、彼女のことを思い出す。そんな簡単に彼女の代わりは現れない。正しく、"有ることが難しい"存在なのだと思う。

だからこそ、15年前に彼女と繋がったこの縁を、長く大切にしなければならないのだと思う。私にとって彼女の代わりが他にいないように、彼女にとっても私という存在が"有り難い"ものでいられたらいい。互いに互いのことを"有り難い"存在だと思えていたら、きっとこの縁はより強いものになっていくだろう。


自分の書いた言葉を本にするのがずっと夢です。