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オレンジ色の時間


暖かい風と少しひんやりとした風が混ざり、初秋の海は夕焼け色に染まろうとしていた。
 海から反射するオレンジ色の光は、とても情熱的で眩しく、光と暗闇の幻想的な狭間は、私の浮ついた心を更に後押しするかのように思えた。
 私は左横にいるシュウ先輩の横顔を見た。
ヒロ先輩とは違う、線の細い色白で、少し坊っちゃん気質の空気が漂う。
クールさと優しさが備わった切れ長の目は、どこか頼りなく、それでいてはかなげで、年上だが守りたくなるような、そんな雰囲気を醸し出していた。
 
私、この人のことが好きかもしれない。
 
まだ出会って間もないが、ふと、そう思ってしまった。
「俺、この海好きなんだよね、月イチぐらいで来るんだ。」
砂浜に着いた時、レジャーシートを広げながら、シュウ先輩が放った言葉に「あっ、素敵ですね、海良いですよね。」と返答した。
レジャーシートに荷物を置きながら「座ったら」と招かれ「ここに来るとさ~2時間ぐらいこうしてるんだ。」と体育座りをしたシュウ先輩は、右手でレジャーシートを2回叩いた。シュウ先輩の右側に座れということなのだろう。
「あっ、すみません。お邪魔しま〜す。」そう答えてからは何の会話もなく、時間だけが過ぎていった。
 
大学の授業が終わって、シュウ先輩の車で1時間あまり、この砂浜に来てからずっと、私たちは無言のまま海を眺めていたのだ。
まばらにいた人たちも居なくなり、夕陽も海に姿を隠しかけた。
オレンジ色の光と、その周囲の青紫色との夢幻的な空間に酔い痴れていた。
 
もう一度シュウ先輩の方を向いた時「帰ろうか」という言葉の合図と共にシュウ先輩の顔が迫ってきた。
一瞬驚いたが、好きかもしれないと思ったあとだったためか、そのまま唇は素直に受け入れていた。
穏やかな波の音が暫く聞こえていたが、夢幻的な空間に酔い痴れていたせいか、それとも、シュウ先輩のキスが魅力的だったからか、波の音も気にならなくなり、彼の手は胸ヘ、そして下着の中へと進んでいき、私はそのまま彼も受け入れてしまっていた。
正気に戻った時にはもうあたりは真っ暗だった。
シュウ先輩は「ごめん」と呟いた。
そしてその気持ちをかき消すように「帰らなきゃな、あっでもその前に御飯食べに行こうか。」そう言っていそいそと片づけ始めた。
 
さっきのことはなかったことにしたいのか、それとも会話をしたくなかったのか、車へと戻ってからは、行きのような大学での話や合コンの話とかは一切なく、曲を流した。
 
杏里の【オリビアを聴きながら】が流れてきた。
そういえばこの前の合コンで、杏里のファンだと言っていたのを思い出した。

祖母が亡くなった。
まだ60歳だ。
私は母と祖母の遺品整理をしていた。
「お母さん!ちょっとちょっと。これ見て。お祖母ちゃんのことじゃない?」
何かの雑誌だろうか?連載物のようにも思うが【オレンジ色の時間】と題して連ねてある文章だけを切り取って茶封筒に入れ、金庫の横にある小さな引き出し箪笥に保管されていた。
私は茶封筒と切れ端を持って母が片付けている隣部屋へと行った。
「ねぇほら見て。お母さん前に、お祖母ちゃんはお祖父ちゃんのこと全然教えてくれないって言ってたじゃない?だから、ほらこれ読んで、ねっ!読んだら分かるから。」
私は、この行きずりの恋のような、短い文章を母に見せて、母がどう思うのか、傷付くかもしれない、など考えることもなく、ただただお祖母ちゃんのことだ!とそう直感で思い、そして会ったこともない祖父のことを思い浮かべ、意気揚々と母に渡した。
母は、さっと目を通して「ふーん」と言うと「あの人のことなのか、あの人が書いたのか分からないけど…こんなの読んでいないで、さっさと片付けて。来週には引き渡さないといけないから。」と言った。
私は一応「はあ~い」と返事はしたものの、続きが存在するのなら読みたいとそう思った。
 
母は、祖母のことを『あの人』と言う。
自分の父親のことを何一つ語らない祖母に対してのわだかまりみたいなものがあるのだろうと私なりに理解していた。
母は『自分のルーツは、20才の時に産まれた以外何も分からない』と言っていた。
『二十歳なんて早すぎる』とも言っていた。
しかしそのわりには母も、私を22歳の時に産んでいる。
大学の卒業式の時には、既にお腹に私がいたらしい。
今では、さほど珍しくはないと思うが、当時の父は大学院生だったので、大した収入もなく、母も働いて生計を立てていたそうだ。
祖母は仕事をセーブしながら私を育てくれた、言わば私はお祖母ちゃん子。
だから私は、祖母が大好きだし、よけいに祖父のことも気になるのだ。
この祖母の家は私の家から近く、学校帰りには必ず寄って、母か父が迎えに来るまで過ごしていた。
今の私たち家族が住んでいる家は、元々は祖母の家族、つまり曾祖父母と祖母が住んでいた家。
かなり古い家だが、木造とレンガが融合した建築物らしく、確かにあまり見かけない建物だ。
父がとても気に入っている。
父は設計士なので、いつも傷んでいるところがないかとマメに点検し、年中色んな所を修理している。
祖母は、父のことを、あの家に惚れ込んで母と結婚したのだといつも言っていた。私が産まれた時に、曾祖父母は高齢者用のマンションへ、祖母はこの家に引越した。
それ以来、祖母はずっとここに住んでいた。
沢山の想い出。
ここで、この家で、この部屋で、半分育った、もうひとつの私の家… 
この家ともお別れするのかと思うと、それはそれで淋しい。
それなのに…余韻に浸りたい私の気持ちを無視して来週引き渡し。
 
とにかくあの続き、会ったこともない祖父のことが分かるかもしれない。
そう思うと、家中探したい衝動を押さえながら、さっきの茶封筒をまた元の引き出しに戻して、金庫付近の物と一緒に段ボールに入れて梱包した。
後で分かるように大きな字で【金庫付近の物と引き出し等】と書いた。
 
祖母は様々なケースや箱をデザインしていたので、絵の具や色鉛筆、布や紙類、そういう類の物が多すぎて、来週の期日までに、一度全部レンタル倉庫に祖母の荷物を運ぶことになっていた。
契約書や大事な書類、金庫の類いを持って帰るために今日は来たのだが、あんな面白い物を見付けてしまうとは、私は祖母の遺言のように思えた。
祖母は見た目几帳面なように見える人だが、全然几帳面ではない。
そこら辺に様々な物を放置する。
さっきのあの茶封筒もそうだ。
一枚だけ入っていたりするのだ。
だからきっとどこかに続きがあるはず。
大事な書類の類いと共に出てくるかもしれない。
もうひとふんばり探しはじめた。
また母に小言を言われると面倒なので、とにかく片っ端から段ボールに梱包していった。
祖母がデザインしていた箱の試作品ばかりを集めて梱包していく。
そして私には、片付けることに託つけて新しい目的が加わった。
「続き」捜し…
次に怪しい場所は文机だ。
文机に付いている小引き出しの中。
あるとしたらここかも…ワクワクしながら二段の小引き出しを開けては中身を確認した。
私の期待はみごとに裏切られ、中は二段とも文房具だった。
仕方なく祖母の試作品で使えそうな物に一端入れてから、段ボールに詰め込んだ。
中身が分かるように箱の上面や側面に中身を書く。
本当に文房具以外何もなかった。
文机周辺には【続き】らしき物は見当たらない。
後、片付ける場所は押し入れの布団類。
希望はゼロ、絶望的だ。
母は隣のリビングにしていた部屋と台所を片付けている。
私はこの寝室。
基本この部屋は祖母の私物しかなく大切な書類があるとしたらリビングだ。
母は昨日から片付けに来ている。
祖母が亡くなって5日目。
もう今日しか手伝えない私にとって色んな余韻に浸る時間がない。
大好きな祖母。
想い出の詰まったこの家。
押し入れは特に想い入れがある。
祖母と布団を敷いたり、拗ねて中に隠れたり… 
もうお別れなのだ。
押し入れを片付けようと襖を開けた。
私が小さい頃に使っていた布団。
そして、祖母の寝ていた布団。
どちらも見当たらなく、比較的新し目の布団と毛布しか入っていなかった。
そりゃそうだよね。
そう自分に言い聞かせた。
深く考えると虚しくなっていく。
 
「お母さん、押し入れの布団どうするの?」
私は時の流れを感じながら、母に指示を仰いだ。
母は食器棚を片付けていたようだ。
時折ガチャガチャと聞こえていた。
「それは引っ越し用の粗大ゴミに出すから紐で縛ってくれる?」
「はーい」と返事をし、紐を取りに玄関へ行った。
玄関に新聞ストッカーが置いてある。
祖母はいつも、ストッカーに積まれた新聞の上に紐を置いていた。
円く巻かれた紐を取ると積まれた新聞の一番上に見慣れないフリーペーパーのような冊子があった。
何気なく手に取ってパラパラとページをめくってみた。
切り取られている箇所がある。
「あっ、さっきの切れ端!」
【オレンジ色の時間】だと思い、紐と冊子を持って私は寝室へと戻った。
せっかく梱包した段ボールを開き、引き出しから茶封筒を取り出した。
少し緊張しながら、茶封筒の中から切れ端を取り出した。
ん?違和感があった。
フリーペーパーと合わすまでもなく、大きさが違っていた。
切れ端の方が大きかった。
あ~あ。
落胆しているところに母が来た。
「お布団、一人で出来る?」
母は私と畳まれた布団を見て「また、それ見てたの?」とため息混じりで言い放った。
「その話は、多分あの人とは関係ないと思うわよ。それから明日、貴彦おじさんと貸金庫の物を取りに行くからまた近いうちにこっちに戻ってきてちょうだい。あの人から梨子にって預かっている色んな物があるから。ああ、それからお母さん先に帰るから、後、戸締まりして帰って来てね。」
母はそう言って家に帰って行った。
 
貴彦おじさん!
そうだ!貴彦おじさんなら何か知ってるかもしれない!
貴彦おじさんは、祖母の幼なじみで弁護士をしている。
祖母の兄のような存在で、祖母は何かと頼っていた。
私は昔、貴彦おじさんが祖父かもしれないと思っていた。
私は急いで布団を紐で縛り、戸締まりをして、貴彦おじさんの事務所に向かった。
貴彦おじさんの事務所は、祖母の家から歩いて5分ぐらいの駅前にある。
『おじさんいるのかなぁ』いつもと違う少しソワソワした気分で、ビルの階段を上がった。
ガラスの重い扉を開け、ちらっと中を見ながら「こんにちは」と少し大きめの声で挨拶をした。
奥から事務の早苗さんが出てきた。
「あら、梨子ちゃん、先生に用?今日は裁判だったのよね…あら?もうこんな時間。先生、遅いわね。また、いつものところに行ってると思うわ。」
「あっはい。」
私は息をする暇もなく、また続けて早苗さんが「梨子ちゃんまだこっちにいるの?」と聞いてきた。
「あ~いえ、明日帰ります。」
「あら、そうなの。陽子さん残念だったわね。あ~本当にね。あたしも寂しいわ。でも梨子ちゃん、元気出してね。で、気を付けて帰りなさいよね。」
「はい、ありがとうございます。」
やっと息ができた。
早苗さんは、貴彦おじさんがいない時は、いつも自分だけべらべらとしゃべって、話を終わらす。
独身だけど、祖母の同級生だ。
小さい頃に色々と可愛がってもらった記憶はあるのだが…大きくなってからは、いつも弾丸のように話して終わる。
私とあまり話たくないのかもしれない。
前に、母にそのことを話すと「何を話していいか分からないだけでしょ、でもあんたのことは可愛いみたいよね。」と言っていた。
私は、事務所の扉を閉めて、すぐそこにあるいつもの場所へと向かった。
貴彦おじさんのいつもの場所。
元奥さんが経営しているカフェ。
おじさんは裁判で弁護をした日は、よほどのことがない限りいつも寄って紅茶を飲むことにしているらしい。
私はいつもの場所【café cherry blossom】の扉を開けた。
貴彦おじさんは、いつも店に入って左奥の個室にいる。
おじさん専用の個室だそうだ。
だがなぜか、今日はカウンター席にいた。
カウンター内にいる桜子おばさんと話をしているようだった。
桜子おばさんが「いらっしゃいませ〜、あら、梨子ちゃん。」と気付いてくれた。
「おばさん、こんにちは。」
カウンター席に座っているおじさんも私の方を見て「なんだ?俺に会いに来たのか?」と聞いた。
私は「うん、聞きたいことがあって…」そう言いながらおじさんの横まで行った。
「ん?なんだ?遺産のことか?」
「ううん、違うよ。」
私はあの茶封筒の中から切れ端を出した。
「これ、何か分かる?」そう言って手渡した。
おじさんは切れ端を持ってちらっと見て「オレンジ色の時間?何だそれ?」
そう言って眼鏡を少し下にずらした。
「読んでみて。」と私が言うと、仕方ないという表情を浮かべながら
「あぁ?ああ」と言って読み始めた。
短い文章だ、おじさんは直ぐに顔をあげて「これがどうしたんだ?」と言って切れ端を私に見せ、その後、桜子おばさんの前に持っていったので、うなずいた。「これってお祖母ちゃんが書いたの?」私はドキドキしながらおじさんの返事を待った。
「俺は知らないな、初めて見たがな。」
少しいつもと違う空気を感じながら私は
「何だ、おじさんも知らないんだ…じゃあどこを探したら続きが読めるんだろ。」と言うと「おじさんもってことは、小雨実に見せたのか?」
「え?流石おじさん、さっきお祖母ちゃん家片付けてる時に見付けたから、お母さんに見せたよ。お祖母ちゃんが書いたのかも?って思って。」
桜子おばさんが私の前のカウンターに切れ端を置いた。
おじさんは眼鏡を外し「で、小雨実は何て言ったんだ?」
「え、何てって…あの人のことか分からないけど、多分違うと思うって。」
おじさんは、お気に入りのcherry blossom teaを飲みほして、
「昔、小雨実にもよく聞かれたよ、私のお父さんのこと知ってる?ってな。梨子もそうだろ?じいさんのこと気になるわな、誰だろ?ってな。」
「ちょっと、たかちゃん。」
桜子おばさんも何か知っているのかもしれない、遮るようにおじさんを呼んだ。私はうなずいた。
そして、何か聞けるのかもと少し身構えた。
おじさんは続けて「小雨実にも梨子にも、俺から言える話は何もないな。昔、小雨実に言ったことがある、陽子は言いたくないのか、言えないのか、言わないのか、それとも陽子自身も知らないのか…一体どれなんだろうなってな。それからは、小雨実は父親のことを俺には一切聞かなくなったな。」と言った。
一瞬ハッとした。「え?えっ?」それってどうゆうことなんだろう?
「ちょっとたかちゃん。梨子ちゃん困っているじゃない。ねえ梨子ちゃん、その切れ端は陽子ちゃんの持ち物なの?」
私の頭の中では『お祖母ちゃんも知らない?』がグルグル回り引っ掛かっていた。「ううん、分からない。お祖母ちゃんの寝室にはあったけど、お祖母ちゃんの物かどうかも…」
「そう。私も見たことないわね…」
桜子おばさんはため息混じりで応えた。
「ああ桜、それコピーとって。」
「人使い荒いわね。ちょっと待っててね、梨子ちゃん借りるわよ。」
桜子おばさんは、また切れ端を持って奥へと入って行った。
おじさんは「あれよぉ、雄二に調べるように言っとく。雄二に任せるわ。」
「雄二さんに?いいの?」
雄二さんはおじさんの事務所の優秀なパラリーガルだ。
雄二さんが調べてくれるのは心強い。
「梨子、明日帰るんだろ?気を付けてな。」
「うん、おじさん忙しいのにありがとう。」
桜子おばさんが、切れ端を紙袋に入れながら持ってきた。
「はい、どうぞ。いつもよりたくさん入れておいたわ。明日帰るなら荷物になるけど、持って行って。」
cherry blossomに来ると、帰る時にはいつも、おばさんが作ったお店の余ったケーキやクッキーを持って帰らせてくれる。
私は、独り暮らしをするようになって、誰かから何かを頂く有り難さが分かるようになっていた。
「桜子おばさん、いつもありがとう。」
私は本当に嬉しくてお礼を言った。
「やあね、いいのよ、売れ残りなんだから。気を付けてお帰り。」
「はあい。」
私はcafe cherry blossomを出た。
 
家までの短い時間ずっと考えていた。
お祖母ちゃんも知らないとしたら…
それはいったいどうゆうことなんだろう?
誰だか分からないなんて…
えっ?もしかしたらレイ…プ? そう思った時、背中がゾクッとした。
何てことを考えるんだ私は。
自分の考えたことが怖かった。
 
「ただいま」
台所にいた母に桜子おばさんからもらった紙袋を渡した。
「行ってきたの?」
私はアッと思ったが「うん」とだけ返事をした。
「で、収穫あった?」母には私の行動がバレていた。
「雄二さんが調べてくれるって。」
母は私の背中を押して、隣のリビングへと誘った。
 
ソファーに座ると母が話だした。
「そう雄ちゃんにねぇ。もう梨子に話してもいいかもしれないね。昔、貴彦おじさんに言われたことがあってね。『陽子は本当に知らなかったんじゃないか?』ってね。その時はまだ、おばあちゃんしっかりしていたからね、貴女のひいおばあちゃんね。だから、おばあちゃんに聞いてみたの。そしたら、おばあちゃん泣き出してね。薄々気が付いてはいたんだけどね。その時にハッキリ、あ~やっぱり、私はアクシデントで産まれてきたんだと、望まれて生まれてきたんじゃなかったんだ。産まれてきてはいけなかったんだって思ったのよ。でもね、おばあちゃんがね『あたしゃ反対したんだよ。子どもが可哀想だし不憫だから、産むのやめなってね。そしたら陽子が「父親が分からないことは不憫なんかじゃない。この子の命が絶たれたり、愛されないで、この世で生まれ育つことが、一番可哀想だと思うから。」ってね。陽子が一番辛い思いをしているのにねぇ。ばあちゃんは、なんか恥ずかしい気持ちになってなぁ。陽子を支えていくことが、親であるばあちゃんの務めじゃないか、って思い直してなぁ。小雨実、あんたの母親は、ほんに立派な母さんだ。』って言われたのよ。」
私は涙が止まらなかった。
興味だけで勝手に決めつけて、浮かれて、盛り上がって…
私は自分を恥じた。
「お母さん、ごめんなさい。」
言葉にならない、声に出すのが精一杯だった。
自分の意思で泣き止むことができずに、後から後から溢れ出てくる涙に抵抗もできず、私は暫くの間泣いていた。
 
翌日私は、一人暮らしをしているワンルームへと帰った。
 
 
あれから2週間。
色んな事を考えた。
もちろん、私自身についてもだが、母についてもだ。
何か、結論を出すわけでもないし、出るわけでもない。
もやもやしながら、大学生活を送っていた。
そんなとき、雄二さんから小包が届いた。
「今日送ったからね」とメールが来ていたので2、3日の間には来るとは思っていた。
届いた小包をすぐに開けることは出来なかった。
とりあえず雄二さんには届いたことだけ連絡しておいた。
届いた小包を放置したまま、何もできずにぼーっとしていた。
 
何時間たったのだろう?
赤みかかった西日が差し込んできた。
この中に、あのオレンジ色の時間の全てが入っている。
雄二さんのことだから冊子を見つけて送ってくれたに違いない。
思っていたのよりも冊数が多いのか、それとも…
小包を見ながら、あの切れ端から想像すると少し大きいような気がしていた。
 
なぜ祖母が一枚だけ置いていたのか?
祖母はあの一枚しか知らなかったのか?
色々と思いながら小包を眺めていた。
私は覚悟を決めて小包を開封した。
雄二さんから一枚手紙が入っていた。
 
梨子ちゃんへ
お探し物です。
それと、生前陽子さんから頃合いを見て梨子ちゃんに、と預かっていた物と伝言です。伝言は【梨子をイメージしました】です。
それと、小雨美さんには内緒だそうです。梨子ちゃんとの二人の思い出だからのようでした。
何かあればまたいつでもどうぞ。
中尾雄二
 
同人誌と思われる本が二冊と白い四角い箱。
白い箱は祖母からだろう。
この同人誌にはオレンジ色の時間が載っているはず。
雄二さんが付箋を貼ってくれていた。
そのページをめくると少し大きな付箋に
『陽子さんは生前、印刷や製本の援助活動をしていました』とあった。
お祖母ちゃんらしい。
きっと、印刷したくてもできない。
そんな人たちのために動いていたんだろうな。
私は、少し気持ちがふっきれたように、祖母を誇りに思った。
私は、大きく息を吸い込んで、オレンジ色の時間を読んだ。
 
オレンジ色の時間
 
暖かい風と少しひんやりとした風が混ざり、初秋の海は夕焼け色に染まろうとしていた。
 海から反射するオレンジ色の光は、とても情熱的で眩しく、光と暗闇の幻想的な狭間は、私の浮ついた心を更に後押しするかのように思えた。

 私は左横にいるシュウ先輩の横顔を見た。
ヒロ先輩とは違う、線の細い色白で、少し坊っちゃん気質の空気が漂う。
クールさと優しさが備わった切れ長の目は、どこか頼りなく、それでいてはかなげで、年上だが守りたくなるような、そんな雰囲気を醸し出していた。
 
私、この人のことが好きかもしれない。
 
まだ出会って間もないが、ふと、そう思ってしまった。
「俺、この海好きなんだよね、月イチぐらいで来るんだ。」
砂浜に着いた時、レジャーシートを広げながら、シュウ先輩が放った言葉に「あっ、素敵ですね、海良いですよね。」と返答した。
レジャーシートに荷物を置きながら「座ったら」と招かれ「ここに来るとさ~2時間ぐらいこうしてるんだ。」と体育座りをしたシュウ先輩は、右手でレジャーシートを2回叩いた。シュウ先輩の右側に座れということなのだろう。
「あっ、すみません。お邪魔しま〜す。」そう答えてからは何の会話もなく、時間だけが過ぎていった。
 
大学の授業が終わって、シュウ先輩の車で1時間あまり、この砂浜に来てからずっと、私たちは無言のまま海を眺めていたのだ。
まばらにいた人たちも居なくなり、夕陽も海に姿を隠しかけた。
オレンジ色の光と、その周囲の青紫色との夢幻的な空間に酔い痴れていた。
 
もう一度シュウ先輩の方を向いた時「帰ろうか」という言葉の合図と共にシュウ先輩の顔が迫ってきた。
一瞬驚いたが、好きかもしれないと思ったあとだったためか、そのまま唇は素直に受け入れていた。
穏やかな波の音が暫く聞こえていたが、夢幻的な空間に酔い痴れていたせいか、それとも、シュウ先輩のキスが魅力的だったからか、波の音も気にならなくなり、彼の手は胸ヘ、そして下着の中へと進んでいき、私はそのまま彼も受け入れてしまっていた。
正気に戻った時にはもうあたりは真っ暗だった。
シュウ先輩は「ごめん」と呟いた。
そしてその気持ちをかき消すように「帰らなきゃな、あっでもその前に御飯食べに行こうか。」そう言っていそいそと片づけ始めた。
 
さっきのことはなかったことにしたいのか、それとも会話をしたくなかったのか、車へと戻ってからは、行きのような大学での話や合コンの話とかは一切なく、曲を流した。
 
杏里の【オリビアを聴きながら】が流れてきた。
そういえばこの前の合コンで、杏里のファンだと言っていたのを思い出した。
 
海から一番近いファミリーレストランに入った。
「門限があるって言ってたよね?」
「あ~10時です。」
「10時か、じゃあ急がなきゃな。」
私は、シュウ先輩がこれからのことを考えて、門限を気にしてくれていると思っていた。
ファミレスから私の家まで、高速道路を使っても1時間はかかる。
車内では杏里の【apricot jam】がエンドレスでかかっていた。
「杏里はオリビアがメジャーだけど、俺はapricot jamがやっぱ最初のアルバムだし、あと中でも『遠い日のイマージュ』が結構好きなんだよね~」
先輩の杏里のことを語る饒舌な声を聞きながら、私は窓の外を流れていくナトリウムランプの光をずっと眺めていた。
 
そして…あれから1ヶ月。
シュウ先輩からは何も連絡がなかった。
資格テストが近づいていたが、何もする気になれず、私は、ただただ毎日毎日シュウ先輩からの電話を待っていた。
「先輩、どうして連絡してくれないのだろう。」
焦りや、不安や、苛立ちよりも、先輩を待っている気持ちの方が強かった。
 
所属サークルの大学祭の準備が始まった。
その頃の私は、在籍はしていたが、サークル活動はしていなかった。
大学祭の日、学部の友人たちの所属クラブやサークルの最後の参加激励のために、最寄り駅の改札を出て、柱にもたれていた。
私は一緒に行く友人が来るのを待っていたのだ。
友人の姿を見付けるよりも先に、女性と手繋ぎしたシュウ先輩の姿を見付けてしまった。
私は急いで柱の陰に隠れた。
妊娠していなかったことを、心の底から本当に良かったと思った瞬間だった。
溢れてくる涙を止める術も分からず、私は一体なにをしているのか、こんな姿友人にも見られたくないなど、色んな思いの中、右手で左手の4本の指をしっかりと握り締めた。
そして、柱の陰から通り過ぎる二人を、涙越しに見ていた。
「なんだ、あの女、全然大したことないじゃない。」
そう思うことで、流れ放題の涙を止め、シュウ先輩の姿が見えなくなるまで見送った。
大学祭を境に、大学へ行く意思が遠ざかっていった。
あの日は、いったい私にとってなんだったか?
勝手に心と体を奪われた私が悪いのか?
若気の至りとはいえ、傷ついた心をどう癒して良いのかも分からず、自分自身を責め、情けなさと悔しさで心のバランスを崩していった。
テニスサークルに入り、部長のヒロ先輩からシュウ先輩を紹介され、サークル活動はほとんど合コンで、テニスは3回ほど参加しただけ。
そのあとは、ただただ、在籍していただけで、あの大学祭のあと、私はサークル活動も辞めた。
 
私に残されたのは、抜け殻のような自分と杏里のオリビアを聴きながらの曲だけだった。
♪オリビアを聴きながら♪
を何度も何度も聴いた。
【出逢った頃は、こんな日が、来るとは思わずにいた】
私は何度も何度もこのフレーズで涙を流した。
そして大学を6年かけて、ようやく卒業した。
就職は出来なかった。
周囲の『就職は?』という雑音を全身に受け、とりあえず短期のアルバイトを繰り返しながら、自分自身と向き合えず、抜け殻のように生きていた。
卒業して2年が過ぎた頃、ようやく、長く続けられそうなアルバイトに、そして人にも出会えた。
小さな会社の事務作業中心の仕事、人当たりの良い人たちに囲まれた良い職場だった。
そのアルバイト先で仲良くなった先輩の女性から
「この職場に来る前は引きこもりだったのよ。」という話を聞いた。
「外に出ようと思ったきっかけは今井美樹さんの『オレンジの河』で、今でも私の好きな曲なのよ。」と色んな彼女の辛かった体験話を聞いた。
話を聞くうちに、自分との共通点があり、不思議と嫌だとは思わなかった。
そして「もし良かったら聴いてみる?」と言って【今井美樹さんのfemme】をもらった。
その人のお薦めの曲は『オレンジの河』
「私が引きこもってしまったきっかけはね、失恋だったの。この曲も最初は辛いって思ったんだけど、ある時、自分から自分の心に『さよなら』を言いたいなってそう思ったのよ。きちんとケジメっていうか、区切りっていうか…この曲はね、私に区切りをくれたような気がしてね、私自身の背中を押してくれた曲なのよ。」と嬉しそうに語った。
 
私も『オレンジの河』を聴いた。
私の想いと重なる部分のある曲だった。

そのせいか何度も何度も聴いた。
さようなら~……
その女性の先輩の話を聞いたからか、私もやっと今までの自分に「さようなら」と思えた気がした。

自分を縛り付けていたのは、シュウ先輩ではなく【私自身】だったのだ。
もう、いつまでも日の落ちないオレンジ色の夕陽ではない。
明日の私に向かうためのオレンジ色の夕陽。
あの日見た、夢幻的なオレンジ色の夕方から私は抜け出せたのだ。
 
私は、ようやく自分の【呪縛】から解放されたのだった。
 
 
 
オレンジ色の時間は、祖母とは関係がなかった。
祖母は、なぜ切れ端を取っていたのだろうか?
どうして全部ではなく、途中までだったのか?
祖母からのプレゼント、白い四角い外箱に黄色と黄緑色の大小の洋梨模様。
その外箱から中の箱を取り出した。
おそらくこの真っ白なホールケーキのような丸い箱が、雄二さんの手紙にあった『私をイメージした物』
側面には祖母の代表作のオレンジの断面模様が2つ。
ホールケーキの蓋を取って開けてみると、内側は真っ赤な苺模様を散りばめたデザイン。
そして中に入っていたのは、ビニル袋に入った小さい頃の私のエプロンだった。
祖母の家に行っていた頃、夕食の手伝いをするときに付けていた、祖母が作ってくれた、私のお気に入りのエプロン。
ポケットの中には手紙が2つ入っていた。
手紙のうちの1つは、祖母のデザインしたオレンジ模様のカード。
そこには…
 
梨子ちゃんへ
いつか梨子ちゃんにと思っていた物が完成しました。
人生の中で、大事な選択をしなければいけない時があります。
選択した方が悪かった時に、人は必ず、あの時、違う方の道に進んだ方が良かったと後悔するものです。
でも、一見悪く見えた方が、良い選択の場合も多いものです。
人は、より良い道を、歩んで行くものなのです。
 
 
そしてもう1つの手紙は…
少し大きい白い便箋に、とても弱々しい文字で『りこちゃんへ』と書かれていた。
 
その後の文章は、雄二さんの字で書いてあった。
 
おばあちゃんの病気は膵臓癌でした。
おばあちゃんに残された時間は短くなりました。
りこちゃんが孫でいてくれて、本当に幸せでした。
生きていたら、色んなアクシデントに出合います。
おばあちゃんは、とても大きなアクシデントに合いました。
おばあちゃんが決めた道は、周りが反対しましたが、そのアクシデントのお陰で、おばあちゃんはとても幸せな人生でした。
小雨実や梨子ちゃんと過ごせた時間。
仕事も、オレンジをモチーフにした作品が世に出て、みんなに愛されたようでした。
オレンジの模様は、小雨実のお陰で生まれた作品でした。
おばあちゃんの生きてきた時間を幸せにしてくれて本当にありがとう。
 
私は、エプロンを抱きしめてしばらく泣いていた。
 
オレンジ色の時間は、小説の内容と重なる部分もあったのかもしれないが、それよりもきっと、タイトルが気に入ったのだと思った。
『オレンジ色の時間』
『おばあちゃんの生きてきた幸せな時間』の意味だったのではないかと気が付いた。
 
お祖母ちゃん、私もお祖母ちゃんと過ごせた20年、とっても幸せだったよ。お祖父ちゃんが誰かなんて気にしなくていいんだよね。
私は、私の人生を生きて行くのだから。
誰の人生でもない、私の人生を。

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