【小説】病院ねこのヘンナちゃん⑮(episode1)
ひとつ前のお話→病院ねこのヘンナちゃん⑭
最初から読む?→病院ねこのヘンナちゃん①
些細なことに気がついたり、いつまでも気に病んだり、人の顔色や言葉の裏を読んでしまったり、神経が休まらないのは家庭の中だけではなかった。
楓子さんは学校でも、人の不機嫌や感情の波に翻弄された。
入学したての小学校。ピカピカの1年生だった楓子さんを担任として迎えたのは、間もなく50代にさしかかろうとする女性教師だった。
初めての校舎、初めての教科書、初めての授業、初めての給食、初めての友達、…初めて尽くしで緊張する1年生を、ベテラン教師は和ませ、安心させ、馴染ませた。
楓子さんはあっという間に先生が大好きになった。
一度などは間違えて「お母さん」と呼びかけてしまい、クラスは大爆笑。
でも先生は「わあ、嬉しいなぁ。元気で優しい楓子ちゃんのお母さんに似てるの?最高の褒め言葉だわ!」と、大げさに喜んでくれた。
今から思えば、この呼び間違いをからかいの種にしないための配慮だったのだろう。
だが純真な1年生たちは、大好きな先生に喜んでもらいたくて、我も我もと「お母さん!」と間違えてみた。
おかげで誰が最初に間違えたのかは忘れられてしまい、楓子さんがからかわれることはなかった。
そんな第二のお母さんとでも言うべき先生ではあったが、更年期のせいで、度々不調に見舞われる。
教師としてのプロ意識から、不調をひた隠しにして元気に振る舞ってはいたが、楓子さんはその波に気づいていた。
教室の扉を開けて、先生が「おはよう!」と入ってきた瞬間に、もう分かってしまうのだ。
今日はなんだか機嫌が悪そう、少しピリピリしている、怒ってる感じがする…。
先生の努力の甲斐もなく、なんとなくそう感じてしまうのだ。
もちろん更年期のことなど、子どもは知らない。
知らない分だけ、不安も増した。
だが周りを見回しても、そんなことを気にしている子はいなかった。
私だけ…?なんでだろう。
大好きな先生を、ちょっと怖いと感じてしまい、クラスメートたちのように無邪気に「先生---💕」と飛びついていけなくなった。
高学年の時、楓子さんは美化委員になる。
主な仕事は、掃除当番の割り振りだった。
いくつかある掃除場所を、みんなの希望を聞きながら調整していく。
当時人気があったのは図書室と玄関前。
図書室は昼休みや掃除時間もエアコンが効いていたし、玄関横のイチョウの大木周辺を掃くのは、むしろ遊びに近かった。
定員を遙かに超えた希望者全員の願いを叶えることはできない。
だが楓子さんは、「絶対トイレはイヤ」とか「とにかく僕を外に出してくれ」という要求を無視できず、当番はいつまでたっても決まらなかった。
見かねた教師の提案で結局くじ引きになったが、楓子さんには「使えないヤツ」というレッテルが貼られた。
中学生になり楓子さんは美術部に入部。
放課後は絵を描く時間になった。
部室で静物と向き合い、果物やカップなどの輪郭を写し取っていく。
視線は対象と画用紙の上を、いったりきたりする。
何度も繰り返すうちに、楓子さんは周囲の雑音を忘れた。
運動部のかけ声、ボールを打つ音、ブラスバンドの楽器の音、足音、お喋りの声…、様々な音が遠のいた。
楓子さんは凪いだ気持ちで、ひたすら2Bの鉛筆を走らせる。
スケッチに出るのも好きだった。
校庭の桜の下、近所の公園、土手の草原、屋外の優しい風に吹かれながら、流れる雲やそよぐ木々や風に舞う花びらを描いた。
画用紙の上には楓子さんの世界が広がっていた。
高校に進学しても、絵を描き続けた。
楓子さんの絵は、水彩も油彩もパステルも、柔らかいタッチが見る者の心を和ませた。
絵を描いている時は、自由だった。
なんの制限もなく、どこへでも行けるし、何にでもなれる…、そんな感覚。
だが実生活は、ますます複雑になっていく。
電車とバスを乗り継いでの通学は、苦痛以外のなにものでもない。
たくさんの人と身を寄せ合って、狭い空間にいることは、ただでさえ過敏な神経に大きな負荷をかけた。
1学年350人の集団は常に騒がしく、人の思念が縦横無尽に飛び交っている。
まるでスクランブル交差点の真ん中に、一日中立っているみたいだ。
自分に関係ない刺激情報ですらこんなにしんどいのに、それが自分に向けられた時は、心が打ちのめされる。
楓子さんの風景画が、市のコンクールで入選した。
美術部の仲間は、みんな喜んでくれたけれど、その拍手と笑顔の裏に見てはいけないものがあった。
1年生のくせに…、技術的には稚拙なのに…、美大を目指しているわけでもないのに…。
面と向かって言われたわけではない。
だが相手がひた隠す、微妙な空気の揺れを、楓子さんはしっかりキャッチしていた。
祝意と正反対の感情が同時に存在する…、向けられた笑顔がまぶしかっただけに、それが耐えがたかった。
こんなものは見たくない。知りたくない。
なるべく目立たない、空気のような存在になりたい…。
楓子さんは入賞した絵を、クローゼットの奥に隠した。
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