エッセイストのように生きる-すずころ日和 読書録-
ごきげんよう。皐月です。
今日は松浦弥太郎さん著「エッセイストのように生きる」を。
松浦弥太郎さんといえばシンプルナチュラル生活好きな方にはお馴染み「暮らしの手帳」の編集長を長年務められてた方。
年末に読んだ著書『「いつも」安心をつくる55の習慣』が共感するところが多かったので、引き続き最新作と思われるこちらを。
というのは半分は後付けで、本のタイトルがその時自分が求めているものに「ピタッ」ときて手に取らずにいられなかった、いうのが一番の理由。
「お、おお?」と、違うジャンルを読もうと思っていたのに、引力すごい。
noteには「書きたい」「書くことが好きだと気づいた」と記事にあげている方が多いので、もうこの帯だけで読んでみたくなりませんか?
松浦さんほどの方でも、やはりそうなのですか?
書くことを続けてみよう、とトライ中のわたしは突き進んでいいですか。
わたしは「書き続けることでみえる景色」があると思っていますが、松浦さんの景色はどんなものですか。
そんな疑問と期待を持って。
はじめに。で書かれたこの言葉。なんかウッとくるものがありました。
みぞおちを軽くグリグリされたような、ゔぅ
物書き、エッセイストへのキラキラした憧れを見透かされたこっ恥ずかしさ。
痛い。痛いよぅ
今まさに、どう生きたいか。を問うては、避けてる自分。
紙に思いを書くこと、自分自身をまっすぐ見つめるのが、こわい。
決断が正しくなかったら?今からする選択を後悔したら?
したいことをして、好きなことで生きていく。
本当に生きていけますか?食べていけますか。
どう生きるか、そう決断をして生きている人も多数いるこのnoteという場所で、
はっきりと言葉にできずモゴモゴしているこの思い。
相反して、迷っているからこそ何かに動かされたい、気づきたい、動きたいから、書いている。
ああ、何をいっているのか。。
おおげさなことはなにもなくて。
自己をみつめて、その事実を認めて受け止める。
全てはそこから始まり、そこに自分軸をしっかりさせる鍵=自己解像度を高めることが安定をもたらす。
エッセイストのように生きる、とは。
それは日々の生活のささやかなものを丁寧にみて、感動という心の機微を言葉にし、それをよろこび、分かちあう言葉としていく。
それを育むように読み、とどけることで、自分や他者への思いやりを深めていく。
そのような生き方が、「エッセイストのように生きる」だと。
読み進める中で、わたしがこの本の中で一番しっくりとそして自分の中に刻みたい言葉がこちら。
そう、ずっと心の底でもやもやしていた思いの言語化。
ドクター・ユアセルフ。
そうだ、そうなんだよ。そうでありたいし、そう生きていきたい。
どうやったって、自分以外にはなれないし、自分を生かすのは最終的に自分しかいない。
この言葉の意味を、本書ではこう記しています。
自分の人生に責任をもって、よりよく生きていこうとする言葉なのだと。
今私とおなじように身体や心の不調を、なんとなく若しくはハッキリと感じている方に読んでほしいこの言葉。
医療を否定するのではなく、
「生きる」の根底にあるのはいつも自分自身の選択と思い、そして行動。
よくなりたい、と薬に頼ってばかりでなく、自分でできることを主体的に選択していく気持ちと、それに伴う行動が必要なことを、これまでの経験からも薄々気づいている自分。
急性時期=医者と薬と休養が必須。
回復期〜=「ドクター・ユアセルフ」を実践していくとき。
ドクター・ユアセルフをしていくことで、自分自身を客観視し、解像度をあげてじっくりと観察し、日々を丁寧にそして感謝して生きていく。
それが「エッセイストのようにいきる」ことであり、
エッセイストとしても必要な観察眼なのかなと思います。
丁寧に暮らすとは
「どんなことやものごとに対してもありがたいな、と思いながら過ごすこと」
感謝するとは
「現実を受け入れること。自分に起こったこと、自分の目の前にあるものをまるごと向かい合い、受け入れること」
そのように著書が導き出した答えを書いてくれています。
本の最終章では、実際にエッセイを書く理念がありましたので、記します。
エッセイを書く時に意識しているというこちらの言葉。
なるほどな。
おもしろくて、楽しくて。それでいて役に立つ。
それって、最高じゃん!
以上、エッセイストになるための本。ではなく、
エッセイストのように生きる、ための本。
現在自己レベルで「自問自答ファッション」片足突っ込んでいるわたし。
コンセプト探しの真っ最中。
「エッセイストとして」生きている。を妄想ノートに入れようと思います。
長文、お付き合いいただきましてありがとうございました。
では、また。
皐月
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