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#7 つくられた「数学嫌い」

■呪縛からの解放

小林道正先生(京都大学理学部数学科出身、確率論、数学教育)は、私の学生時分は中央大学の経済学部で教授をされていた。

商学部だった私は、経済学部の友達に「数学の講義でわかりやすくて面白い先生がいるぞ」と教えてもらい、小林先生の講義にこっそり潜入した。

100人超の大教室だと割とそういうことができたのだ。

大学入試は国語・英語・数学だったものの、文系学部だから入学後は数学とは縁が切れると思い込んでいた。

ところが、マーケティングのゼミに所属した途端、経済学並みに微分を使って分析したり統計学を学ぶことに追われた。

しかも毎週1,600字小論文(中論文?)を宿題として出され、PCが普及していない時代だから、手計算したり、グラフも手描きだった。

その時のペンだこは今も残っている。
選択を間違えたと思った。

その後、学内発行誌に掲載された小林先生の考えに触れる機会を得て、数学的手法の重要性を改めて身に染みて感じたのだった。

■10歳の壁

先生は次のように述べていたと記憶している。

「数学嫌いは、多くの場合、小中学校の算数・数学段階で生み出される」と。

今でもよく言われている「10歳(小4)の壁」だ。

小学生の低学年のうちは、国語と算数が要。

「読み、書き、計算」だ。

算数はひたすら加減乗除の訓練をする。

そのうち数字以外の記号や図形が出てくる。

抽象概念と論理的な思考が必要になりどんどん複雑化していく。

次第に、算数・数学は「難しいもの」「わからないもの」というネガティブな思考が形成されていく。

そして落ちこぼれ(厳密には教師側の落ちこぼし)が生まれる。

しまいには「ボク、数学できないもん」という思い込みを自分で自分の脳に刷り込み(セルフマインドコントロールし)、下手をすると大人になってから自分の子どもにも「お前が数学ができないのは親に似たんだな、仕方ないよ」とマインドコントロールする。

「学校の勉強なんて社会に出たら使わない。役に立たないもん」‥‥

多くの教科がその本質を理解されず、勉強しない言い訳の言葉であふれかえる。

■環境整備と必要性を説く努力

小林先生は、頭のよし悪しは、遺伝的な要素よりも教育環境で決まると断言していた。

現象的には学力差は生じうるが、それはあくまでも環境差であって、数学に向き不向きの頭などないという。

小林先生の話で印象的だったのは、おおよそ次のような内容だ。

「一部の者だけが特権的に高度な教育を受け、その他大勢の者は、あまり賢くならなくてもいいような理由づけが世の中に浸透している。

つまり、数学や物理などは日常的に必要ない。数学的に優れている頭の人がやればよい、というまやかしの言葉にみんな騙されているのだ。

理数ができなくとも“勤勉な労働者”として存在すればよいという暗黙の社会的合意があるのではないか」
という指摘である。

「難しい=分からない=不得意だ=嫌いだ」と放棄させるのは教育とはいえない。

高校へ上がると、数学はより高度化し、しかも具体の事象を抜きにし、公式に基づいて解くことに終始していると、つまらない内容になってしまう。

私なんぞ、微分することの必要性や意味を理解したのは経済学やマーケティングを学んでからである。

お陰で、感情を排除し物事を客観的に分析し思考するうえで役立っている(はずだ・・・・)

誰かが各種の統計や分析結果について数字を並べてプレゼンしたとしよう。

聞き手が「数字の羅列は無理!」と思った時点で思考は停止する。
数字に無頓着なばかりに、統計バイアスに気付かず、数字のマジックに騙され、言いくるめられ、無駄金を払わされ・・・

そんなことが世の中にはたくさんある。

数学にできること、数字で説明できることには限界はある。

限度をわきまえないで数字が拡張して用いられている例は日常の中にいくらでもある。

数値データから勝手な解釈を引き出されていることを見抜く力がなければ、データサイエンスの時代は生き抜けない。

数学は歴史の流れのなかで捉えれば、量の変化が重視される物理と深く結びついて発展してきたのは事実だ。

その時代その時代の社会の必要に迫られ、発展してきたものでもある。

収穫物を数えるのに、手の指、足の指を動員するだけでは間に合わなくなり四則計算、代数が生み出された。

貨幣経済の発展により会計(簿記)が考案され、貸借や過不足を捉えるのに負の数が考え出された。

科学技術の進歩に微積分が貢献し、ミサイルの弾道計算が手動計算機では間に合わず電子計算機(コンピュータ)が開発され解析法が生み出された。

教員になってからプログラミングの授業でCOBOL(事務処理言語)を教えるようになり、「最低でもこれだけは・・・・」と先輩教員に奨められ、初級に相当する旧・第二種情報処理技術者試験に挑戦した。

北海道立情報処理センターの研修に参加し、難しさよも手順の多さにうんざりし、1回目の不合格で恥ずかしい思いをした。

プログラミングには、設計から実行・運用まで論理的な思考が不可欠であることを学んだが、資格取得の成功に必要な要素は、目的と目標を明確に設定することだ。

「資格なんて取らなくても授業では教えることができる」という慢心があると、受験勉強に身に入らない。

「無免許運転でもいいか・・・SEになるわけじゃないし・・・」と、どこかに逃げ道をつくっていることに自己嫌悪したりもした。

教材作成や部活指導の合間を縫いながら勉強して、結局、合格するまでに足かけ2年もかかった。

今なら、基本情報技術者、応用情報技術者ということになるのだろうが、出題範囲の中には「離散数学」とか「応用数学」をはじめ、データ構造やアルゴリズムがあり、それは午後試験の経営戦略、会計・財務に関わる部分にも必要な思考力だ。

すでに老いた身だ。
新しい言語をマスターしようにも、最近、物忘れが激しくなってきている。

スマホをどこに置いた?メガネ、メガネがない!
財布、財布はどこだ?思い当たるのは学生にハンバーガーを奢ったあの店の座席か?
後払い制にしてくれりゃ忘れなかっただろうに。

ダッシュで取りに戻ったら、店長が警察に届ける寸前だったことがある・・・・

■世界共通語「数学」との出会い直し

6月に閣議決定した「デジタル田園都市国家構想」の基本方針では、2026年度末までに、エンジニアやデータサイエンティストなど、DXの推進を担うデジタル人材を230万人育成することを目指すと示されている。

あと4年で可能なのか?
「めざす」だから希望的な数値なのか?
それって、数学的な確率論として可能なのか?
知らんけど‥‥

雨後の竹の子みたいに、急にニョキニョキに生えてくるわけでもあるまい。

社会全体でデジタル人材の育成を加速させる必要があることは確かだ。
私の勤務する大学でも “ 文系のデータサイエンス ” の推進に着手している。

データサイエンスはその名が示すとおり「理数系」「自然科学」の守備範囲と言われてきたが、そいう認識だから日本はIT分野での国際競争力を落としてきたのだろう。

これからの子どもたちは、文理融合の中で学びを深めていく世代だ。
社会科学、人文科学もサイエンス。

科学的・論理的思考が必要である。

日常生活のなかにも量の変化増減はある。

突き詰めれば、主要5教科(国社数理英)だけでなく、芸術(音美書)や家庭、体育にも数的な変化増減はある。

数学は世界共通言語である。

算数嫌い、数学嫌いを増産するのは人類の損失である。
高校・大学からでも遅くはない。

私の次男は数学が不得意だったが、高層ビルの設計施工で測量に関わるようになってから、数学と格闘し、学び直しに励んでいる。

苦手意識を持っている人は「折り紙」を題材に、幾何や有理数、関数、方程式などとの出会い直しをするのも面白いかもしれない。