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「幸せとは何か」にさほど興味はないけど「生きていくってなに?」がつきまとう

前回の記事の続きになると思います。
こういうお題は結実するものではありませんが、自分の内部でぐるぐると妄想しているだけだといつまで経っても堂々巡りのよくないループに日常を脅かされるので、文章をつらつらと書いておきやすいnoteに記しておきます。

生きていくことがつらいって、どういうことなんだろう。
目の前の現実がイヤになること、とは言えるかもしれない。
明日の朝起きること、今日の夜眠ること、日一日が自分の状況に寄り添うことなく無情に過ぎていく感じが怖かった経験は私にもあります。
しかしこれは今考えると、自分の過酷な状況を周囲の平和な状況に合わせるようにもっていくことがとてつもなく苦しかったからそう感じたのだと思い直せるところがある。
過酷な状況をじっくりと自分の力を信じながら処理する時間と意欲、そのための経済的余裕がその当時の私にあったら、別に怖いと思うほどのことでもなかったとは思えます。

今を生きることに忠実であれれば、諸々の問題は案外不幸の種ではなくなるのかもしれない。
とはいえ、私の過酷さなんて呑気な方だということはよくわかる。
人と比べることはナンセンスではあるけれど、もっと過酷な状況を生まれた時点から強いられる人も少なくはない。

呑気よりの私みたいな人も、想像を絶するような過酷のさなかの人も、みんな今を生きてはいる。
けれど、今を生きるという意図を持ってそこにコミットできている人は多くはない気がする。

人間の厄介さでもある、生きることの意味を考えてしまう癖、幸せとは何かを探ってしまう癖、他人と比べて自分の人生の非生産性に目が入ってしまう癖、これはいったいなんなんだろう。

ひとつ思うのは、暇だからそんな思考が生まれるのかもなということ。
忙しくしている人はそんなこと考えない。
いや、本当にそうだろうか。
忙しいってなんだ?
新しいことをどんどんやって事業を起こして海外を飛び回って、はたまた農作業や漁業林業などの体を張って日々自然と向き合う仕事に追われるなどしていると、生きる意味など考えはしないのは一理ある。
けれど、その状況にある人々の中でもいろんな人がいるわけで、考えてしまう人もゼロではないと思う。

ただ生きていればいい、そう思えなくなるきっかけ、例えば自分の内部の感性の非常に多くの部分を占めていた人がある日突然いなくなるとか、そういうことがあると人は今自分が生きているという瞬間の意味についてちょっと考えてしまうのかもしれません。

人生は死ぬまでの暇つぶし、なんかあまり好きではないこの言葉。
人生はどれだけ体験するかが大事、意味の履き違えを生みそうな言葉。
人間の生の目的は種の保存である、そうだとしてもそれだけなわけない。

自分の今を生きる、このことがシンプルに心地よい生き方であるのは確かだ。
どんな状況であってもやはり人は自分の今を生きるしかないのだから。

そしてそんな自分の今という瞬間を自分だけでなく他人に世の中に向けて晒し始めた私たち、これはいったいどうしたことか。
しかもそのような作業というか手間のようなことに日々の結構な時間を割いている、これはいったいどういうことなのか。
あなたは自分の何かしらを自分以外の何かに向けて公開していますか?

人々の日常がコンパクトな画面に次から次へと垂れ流しになっていて、当然垂れ流す人は流れを見極めるために自分が見る側になる画面を注視している。
どうも、人々がその人それぞれの今という瞬間に身を向けることが難しくなるようなツールやシステムが私たちの日常にすっかりはまり込んでしまったようですね。

そこには、幸せとは何か、自分は幸せなのか、私はあの人より幸せか、ここからあそこに行けば幸せになれるのか、というようなほぼ無意識の幸せ度測定器のようなものが反応してしまいそうになる仮想でごった返している。
さらにいえば、このごった返した価値観のるつぼが垂れ流れてくる小さな画面というのはこの上ない依存性を生み、どんどんと今の自分を生きている感覚を掴めなくしていると言えそうだ。

とここまで書いてやっと腑に落ちそうになっている。
そうだ、きっとそうだ。
私は全面肯定されたいのだ、自分と周囲に。
その生き方で大丈夫、全然問題ない、間違ってない、むしろいい生き方だ。と。
きっと、自分の何かしらを公開している人たちの多くもそうなのではないかという気がする。
承認欲求というものなのか、いいね、それで全然いい、問題ない大丈夫。
全面肯定されてそのままでいいよ、すごいよ、素晴らしいよと言われたところで、自分の人生をそのままするりとやり過ごして生きていけるのだろうか。
それがこの世界で今を生き続けていくということなのか?
腑に落ちかけたけどなんか全然違うような気もしてきた。

きっと、今ここに生きている私たちはその時点で全面肯定はなされているはず。
だからもっと自分の今をたくさん生きながら、その生命を華麗に燃やし続けられるように努力や改善を惜しまず積み重ねていくことが生きていくってことなのかもしれない。

生きながら死なないように、自分の今に思考と感情を追いつかせないように、そのスピードを落とさぬように今を生きて生きていこうと思う。

答えなんてあると思って書いてはいなかったけど、やはりそうだ、こうしてなんとか手指を動かしていれば新しい道がひらけてくるということがあるんだ、だから生きていくってことはおもしろいのかもしれないな。








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