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「今を生きる」これの難しさに今面食らっている

充実した日々とはなんだろう。
価値のある人生とはいったいどういうものなんだろう。
そんなことを考えるとますます自分の今の状態がそういうものから遠いところにあると感じてしまうことってないですか?

とはいえ、とりあえず健康で毎日の生活を苦なく送れているのであればそれで十分に素晴らしい人生であるとも思えるし、満足もできていると感じる。
自分の今の状態に何かしら不満を抱き、もっとやれることがあるはずなのになんで出来ていないのだろうとか思う暇があったら体を動かせと思うこともある。

しかし現実には、体を動かして何か有意義とされるような事をやったとしてもなんとなくまた同じ着地点に戻ってしまい、蓋をしていたはずのダメだなぁという感情が遠慮なく顔を出す。
このダメだなぁの壺みたいなやつをまだ自分の内部に大事に抱え込んでいるからなのか?
この壺みたいなやつ自体を潔く捨てないといくら頑丈な蓋を持っていたとしても結局その蓋を開けるのはいつだって自分なのかもしれない。

「今を生きる」
この多くの人々の手垢がべっとりついたような言葉が最近頻繁に浮き上がってくる。何かの媒体で目にしたとかではない気はするけど、手垢付きの「今を生きる」とはまたちょっと違った風味をもって私の中にぷかぷかと漂流している。

今、って、この瞬間の今です。
この瞬間瞬間です。
思考に捉えられる直前の、とてもフレッシュな、はい今、です。
よくスピリチュアルとか心理の話などで登場する「今ここ」ってやつかもしれません。
私も少し前にはよく言ってました、今ここを大事にしないとダメだよなって。

今を生きると今ここ、似ているし同じとも言えそうなんだけど、今ここにあるポップさみたいな気軽に頭で理解できそうな雰囲気が今を生きるにはない気がします。
過去の記憶や感情にも予定や予想を視野に入れた未来にも、絶対に左右されては存在し得ない今、それを生きる。
難しいんですよ。
思考や感情に捉えられてしまうんですよ。

現代社会に身をおく私たちにとって、過去や未来のことを全無視して今だけを生き続けるということはこれまた危ない生き方でもあると思います。
大なり小なり人との関わりをもち、人と共同生活をして世界経済という渦の中の消費者という立場でもある私たちは、過去や未来や感情を踏まえて思考したり計画したり行動したりしなければいけない存在ともいえます。

そこで現代人が今を生きるという状況に身をおきやすくなる有名なメソッドを活用する人もたくさんいますね。
そう、瞑想とかヨガです。
とても有効だと思います。
これをモノにすると今この瞬間を感じやすくなり、今を生きるってこういうことかって感慨深く納得できる気もします。
ただこれ、どちらかというと今を生きるというよりは今ここなんですよね。

瞑想、やってますか?
瞑想とかヨガみたいなものが難しい、そう感じる私が今を生きることが難しいと思うことはシンプルな方程式ですよね。
そらそうやろっていう。
ではこちらはどうでしょう。
無になる。
例えば単純作業などを繰り返す中でふと訪れる無の瞬間、大興奮の狂気的宴の中である瞬間明確に到達するハイな無の境地、こういう場面では思考も感情も追いついていなくてシンプルに空っぽだといえるかもしれません。
空っぽになれるのは過去でも未来でもなく今しかないですもんね。

さて、ではこうして無になる瞬間こそを今を生きているとし、今を生きているならば価値のある人生を生きていると実感できるのだろうか?
いや、そもそも価値のある人生を送りたいと思うかどうか、自分の人生や生き方をどう捉えるかによって今を生きたいのかどうかも変わってきてしまう。

私はいったい何が言いたいのか。
人生100年時代、仮にそうだとして私は今ちょうど真ん中あたりだ。
生きてきて死んでいくその中間、しかし人の生命はそんな尺度で換算できるわけがないから今日が死の淵かもしれないし数ヶ月後に新しい人生の門出を迎えることだってあるかもしれない。

だとすると、やはり今を生きるをやり続ける人生こそが生命の燃やし方として最適な気もしてくる。
そして私が時々冒頭のような虚無におそわれる理由は現実の生活と最適な生命の燃やし方との間の乖離が大きいと感じるからなのではないか。
なぜそうなっているかもだんだんわかってきた。
要は、今まで今を生きてこなかったからではないか。

10代20代30代、どうやって生きていたのだろう。
誕生してから今の今までどんなふうに生命を燃やしてきただろう。
人の生き様ってなんなんだろう。

ところでみなさん、日々を平和に暮らす過程において上記のような妄想が思考を埋めにかかってきたきたらすぐにやめて体を動かしてくださいね。
私はこの妄想がどんなかたちとして現れるのかを、今手指を動かして観察しているところです。
動かしてみてわかったことは、私にとって手指を動かして言葉を繋いでいくという作業を通して今を生きているのかもしれないということ。

もしかしたら次稿に続くかもしれません。



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