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【ヒデコ日記⑥】ヒデコvsうなぎ

facebookで、ヒデコ(母、でぶ)のことを「ヒデコ日記」というタイトルでたまに書いている。ヒデコにまつわるコラムも電子書籍で書いたことがある。その原稿を時系列もバラバラながら、ここに少しずつアップて残していこうと思う。ヒデコがこの世を去った時、思い出すために。

僕の実家の磐田市は静岡県の西部、うなぎの養殖が盛んな浜松や福田(フクデと読む)に近く、今思えば子供の頃から、うなぎの蒲焼きをよく食べた。食べたと言っても、家で、なのだが。
我が家の場合は、正幸(父、めがね)が福田の養殖所で白焼きを買って来て、ヒデコ(母、でぶ)が魚焼きグリルで蒲焼きにする。タレを二度づけ、三度づけしながら、丁寧に焼く。家にタレを塗るための刷毛もある。持ち手のとこにタレを入れると、先っぽからタレがちょうどよく出てくるシリコン製の刷毛も、ヒデコはどこで見つけて来たのか、「これ便利だに~」と愛用していた。

「蒲焼きは、ちょっと焦がすぐらいがいいだに。ご飯は硬めがいい。べちゃっとするとタレが染みこんでいかんでね。ふんわり空気を入れて盛るだに。タレはかけすぎるとしょっぱくてまずいでね。タレは少なめにかけて、足りなきゃあとで少し足すぐらいがいい。横に小皿でタレ用意したで、スプーンでかけて。」

こんなことをヒデコはいつもぶつぶつ言っていた。それが当たり前だった。なので、ヒデコが送って来たうなぎを、東京で妻(怖い)が焼いて、ご飯がべっちゃりだったり、焦がしが足りなかったりすると、つい僕はあれこれ文句を言ってしまう。すると「私はヒデコじゃねーんだよ」と、返り討ちに会う。

僕の地元のクラスの同級生には、うなぎ屋の息子が何人かいた。学校の運動会や近所の夏祭りで「うなぎつかみ競争」というのがよくあった。普通の僕らは、うなぎをぬるぬる滑らせてしまい、なかなか思うように掴めないのだが、うなぎ屋の息子は、人差し指でうなぎの首根っこをキュっとつかみ、ビクともさせずに運んで圧勝していた。

そういえば、僕が3才、則幸(3つ上の兄)が小1の頃、正幸(父、めがね)が、知り合いの養殖業者から生きたうなぎをもらって帰って来たことがあった。バケツの中、にょろにょろうごめく太いうなぎが2匹。それを則幸がたらいに移し、水を入れて飼っていた。しかし、ある日の土曜、幼稚園から帰ると、そんなうなぎが死んでいた。白いお腹を見せて、ポカンと浮いていた。

それを見たヒデコは、腕を組んで何か考えている。狭い台所で、何やら準備を始めた。どこにあったのかという大きな木のまな板を出してきて、正幸の工具箱から、千枚通し(目打ち)を2本用意し、サビをこすってキレイに洗い始めた。
まさか、なのであるが、そのまさかだった。ヒデコは、腕をまくって、うなぎをさばき始めた。
「おっかさ(お母さんの遠州弁)、そんなのやったことあるの? 出来んの?」
僕と則幸は、ヒデコを疑っていた。ヒデコは恐らくやったことはないのだが、やったことあるとも、ないとも答えず、黙々とうなぎと格闘していた。どこで覚えたのか、まずは目打ちをうなぎの頭と尻尾に、ブスッと刺し、まな板に固定した。
「ウエ~!」
僕らは目をそらした。ヒデコの後ろ姿は、母親というより、どっかのうなぎ屋の太った大将みたいだった。初めて見るウナギの解体作業に、兄弟で大興奮。何のマニュアルを見るでもなく、恐らくヒデコ的「カン」でキレイにさばき、家にある串に刺して、自家製のタレを二度づけ三度づけしながら、生まれて初めて、家でさばくところからの、うなぎの蒲焼きを作って見せた。

夕方、ちょうど正幸(父)も仕事から帰って来て、蒲焼の良いニオイでご機嫌。早速ビールを飲み始め、いつもと違うテンションの夕食が始まった。
「おっかさ、よくさばけたね」と僕が言うと、則幸が「目打ちで、うなぎの目にさしただよ、すげーことするな、おっかさ」
ヒデコは黙々と台所仕事をしながら(ヒデコは家族がご飯を食べ終えるまで食卓に座ってるのを見たことがない、何か次の作業をしている、落ち着かない親だった)

「バカ、目打ちは、目を打つから目打ちって言うんだに~」
「そっか、なるほど」
「おっかさがさばいたうなぎ、どうめぇら(超おいしいね)」
「どうめぇ〜」
「あはははは」

その日の夕食は大いに盛り上がった。正幸のビールもうなぎも進んだ。
食べると精がつくつといううなぎ。
その約10か月後、僕の下に、弟が生まれることになるのは、ゆるぎない事実だった。ハネムーンベイビーというのは聞いたことがあるが、うなぎベイビーというのは、聞いたことがない。
(2013年の電子書籍「離婚は遺伝だでね」より)

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