ショートショート『赤い箱と青いパンジー』
「おはよう。栄太君」
僕は振り返り、みのりの顔を見た。にこやかだが、どこか影を感じさせる表情だった。色素の薄い肌、肩まで伸びた黒髪に、新品のセーラー服をきっちりと着こなした彼女は、同い年とは思えない程大人びて見えた。
校舎は年季が入っており、所々ヒビが入っている。少し薄暗く、人のいない静かな廊下に、彼女の小さな声はこだました。
「おはよう。みのりさん」
彼女の背後には、昇降口の花壇に植えてあるパンジーの花が、青く色鮮やかに咲いており、彼女越しにちらちらと目え隠れしていた。
いつもの登校時間。ぼくはみのりが登校する七時三十分に合わせて、昇降口で待っている。そのことをみのりは知らない。
一緒に教室へと向かう二人に会話は無い。それもいつものことだった。いつもみのりの時間に合わせて登校して、一言だけ挨拶して、教室へと向かう。僕はそれだけで満足だったのだ。
窓から差し込む朝日が、リノリウムの床に反射して柔らかに道を照らしていた。僕らは、太陽に示された道を並んで静かに歩く。
廊下は二人の足音だけが響いていた。
みのりと何を話せばいいのか見当もつかなかった。中学に上がって一か月弱、僕はみのりとの朝の出会いを楽しんだ。しかし、みのりとの関係はそれだけで、それ以降お互いに会話することはない。
みのりは、教室では一人で読書をすることが多い。彼女の周りにはいつも薄い膜のようなものが張り付いているような気がした。彼女は誰かに合わせて会話をすることも、愛想笑いをすることも無かった。どこか達観していて、冷めた印象を抱いた。
だからこそ、僕は彼女のことが無性に気になった。相手に合わせること無く、ただ淡々と本のページをめくる彼女は、触れてはならない彫刻のような凛とした美しさを持っていた。
その日の放課後、僕は部活へ行くために校舎裏の砂利道を歩いていた。春も終わりに近づき、初夏が目の前に迫っているこの頃は大分暑い。学ランの袖で汗を拭きながら、ふと、視線を校舎の方へ向けた。すると、古い校舎の中庭に生える青々とした芝生の中に、赤い小さな箱が落ちているのが目に入った。
赤と緑と校舎の灰色のコントラストが美しく、僕の目には幻想的に映った。廃墟と自然が調和している時のような感覚に、僕は思わず、その箱に手を伸ばした。
持ってみると軽かった。箱はプラスチック製で光沢があり、ツルツルとしている。意外としっかりとした造りで、中身は見えない。真っ赤なバラのように目の覚める赤は、陽の光を浴びて、温もりがあった。
裏を見ると、村上みのりと名前が書かれていた。
彼女の持ち物だと分かって、少しほっとした。落とし主に間違いなく返すことができる。
みのりが普段どんなものを持ち歩いているのか、俄然興味がわいた。みのりが赤い持ち物を持っているのがイメージとかけ離れていたからかもしれない。彼女が持っていそうなものは、青が似合うような気がする。
中身を知ったら、挨拶を交わすだけの関係が、ひょっとしたら変わるかもしれないと思った。
彼女の赤い小箱をゆっくりと開く。
中に入っていたのは、僕の写真だった。それも一枚ではない。計三十枚はあるであろうすべての写真に僕が写っていた。野球部でキャッチボールする僕。友人と下校する僕。多種多様な僕の姿があった。
「なんなんだ、これ」
僕は一瞬驚き身震いした。吹き抜ける風が汗とともに僕の体温を奪っていった。が、ああ、そうかと納得した。彼女も僕と同じなのかもしれない。そうさ、彼女と接点を持っている男のクラスメイトは僕しかいないじゃないか。
そう気づいた僕は嬉しかった。その場で小躍りしてしまったかもしれない。
僕は彼女に惹かれていたが、彼女は僕に興味なんて無いものだとばかり思い込んでいたのだ。
僕は宝箱のように大事に、大事に鞄にしまう。
明日、彼女に渡すのだ。返す時、なんて伝えよう。僕はスキップしそうになるのを我慢して、代わりに全力で走った。今日の部活は何でもできるような気がした。
次の日の朝、みのりが登校するのを、灰色の校舎で今か今かと待った。外は今日も青空で、爽やかな風が昇降口から校舎の中に入り込む。青いパンジーの花弁が風と共に校舎へと迷い込んだ。ぼくはその青い断片を拾い上げ、手の中で眺めた。すると、彼女が昇降口へとやってきた。
「おはよう。みのりさん」
「あ、栄太君……おはよう」
ぼくは花びらを学ランのポケットにそっと入れた。
みのりは心なしか元気がなかった。影を感じさせる表情はいつもの通りだが、笑みがない。
二人並んで廊下を歩く。
教室へと向かう道すがら、僕は彼女に話しかけた。
「元気、ないね」
みのりは驚いた様子で、ぼくを見た。昇降口から廊下へ吹き抜ける風が、彼女の髪をなびかせる。
「どうして、わかるの?」
「それは、僕が君の探し物を知っているからだよ」
彼女はそれだけでなにか分かったようで、顔がみるみる赤くなる。
教室に着くと、がらんとしていた。南側の窓から差し込む朝日が、机を照らしていた。
教室には、僕とみのりしかいない。始業が八時半だから、一時間も前に登校してくるクラスメイトは、僕達二人以外にいないのだ。
僕は窓を開け、新鮮な朝の空気を教室にいれる。甘い匂いがした。春独特の暖かさを伴った風だ。
みのりは、顔を赤くしたままこちらを見ていたので、僕は彼女を手招きして、
「みのりさん、これ」
と、僕は鞄から真っ赤な小箱を取り出す。
「……見た?」
みのりさんは、僕の顔を見上げて言った。
「ごめん、少しね」
僕は、箱を彼女に手渡して、笑った。
「驚いたよ。……その、写真が、好きなの?」
流石に、僕が好きなの、とは言えなかった。
みのりは余計に顔が赤くなって、耳たぶから湯気が出そうだった。
「本当、ごめんなさい。勝手に撮ったりして!」
「いや、良いんだ。その、嬉しかったし……」
みのりは、僕の言葉に目を丸くしていた。
「いや、ほら、すごい上手いからさ、びっくりしたっていうか。良い感じに撮られて僕も嬉しいっていうか」
「そんな風に言ってもらえて、私も嬉しいよ。……届けてくれてありがとう」
みのりはにっこりとして、大事そうに真っ赤な小箱を両手で胸に抱いた。
「ねえ、あの、これからは勝手に撮らないから、被写体になってくれないかな?」
「もちろん。良いよ」
僕は思わず心の中でガッツポーズしていた。これで、みのりとの距離は一気に近づいた。あとは、僕が気持ちを伝えるだけで良いんじゃないか?
「あの――」
「良かったぁ! これでコンクールに間に合いそう!」
「……コンクール?」
「そうだよ。私、写真部なの」
「……あ、そうなんだ」
「でね、はじめてコンクールに出すための写真を撮っているんだけど、なかなか良い写真が撮れなかったの。あ、テーマは『男友達』なんだけどね。私、栄太君しか男の子と関わり無かったし、お願いすればよかったのにね。でもなんか恥ずかしくって、勝手に撮っちゃって本当ごめんね」
「……いや、良いんだ。役に立てて嬉しいよ」
みのりは、満面の笑みではしゃいでいた。
まあ、良いか。
僕は初めてみのりの本当の笑顔を見れた気がして、やっぱり得した気分だった。学ランのポケットに手を突っ込み、南側の窓にもたれながら彼女の笑顔を眺めた。が、青いパンジーの花弁が手に引っ付いたので、そっと取り出し、開けた窓から風に乗せた。花弁はくるくると回りながら、高く舞い上がった。
みのりがしきりに話す写真部の出来事に聞き入っているうちに、すぐに始業の時間になった。
みのりは名残惜しそうに自分の席に着くと何かを言った。喧騒で聞き取れなかったが、唇の動きから推測するに「またお昼休みね」と彼女は言ったのだろう。
僕は彼女に頷き返すと、時計を見上げた。お昼休みまで、あと四時間。僕も窓際の席へと着くと、待ち遠しさを教科書で覆い隠し、起立の号令を待った。
(了)
岸田奈美様が主催するコンテストに参加いたします。
#キナリ杯
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