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花、送れ。【2000字のホラー】

いい?合言葉を決めておくわね。
何かあった時のために。

高齢者施設での虐待のニュースを観ていた母が、
突然そんなことを言い出した。

「本当のことを口に出してはいけない状況だけれど、助けてほしい時とか。
ほら、映画とかであるじゃない、
犯人に脅されて家族に無理矢理
電話させられる場面。
『ハァイ、こちらは元気でやってるわよ。
ちょっとお金が必要だから持ってきてくれない?』とか気丈に言ったりして。
内心震えが止まらないのに」

母は部屋の中をぐるりと見回した後、
こう言った。

「ハナ、オクレ」

出窓に置かれた一輪挿しのガーベラを見ながら、
母はいい考えでしょうと言いたげな表情で
私を見た。

「お母さんが『花送れ』って言い出した時は
助けてってことだから。覚えておいてね」

はいはい。と、私は適当に相槌をうって
鞄の中に教科書やノートを突っ込んだ。

「忘れないでね。花送れ、よ」

「わかったよ」

慌ただしく学校へ行く支度をしている私の視界の隅で、母がむくれていた。
でもそれもほんの僅かな時間のことで、
母は台所で洗い物を始めた。



今日、私は五十歳の誕生日を迎えた。
息子夫婦と孫もお祝いに駆けつけてくれて、
久しぶりに賑やかな食卓を囲んだ。

「そろそろ旅行なんかどうだ。
コロナ自粛も解除されたし」

夫が旅のパンフレットを照れ臭そうに
差し出してきた。
息子達も笑顔で頷く。
孫の小さな体を抱きあげると
柔らかくて甘い匂いがした。
なんて幸せな時間。

私を産んでくれた母に思いを馳せる。
今頃母はどうしているだろう。
昨年病気で入院して以来
体の自由が効かなくなった母は、
今は施設で暮らしている。
職員の人たちは皆優しい。
いい場所に巡りあえて母は幸運だったと思う。

リビングの掛け時計をちらりとみる。
まだ面会時間は終わっていない。
オンライン面会で母と話をしよう。

私は施設に面会を申し込んだ。
暫くするとiPad画面に母の顔が映った。
先月より痩せたようだ。
画面の奥にいる職員の和田さんが
にこやかに言う。

「ご無沙汰しています。
裕子様は食欲もあって
元気に過ごしていらっしゃいますよ。
日中は庭でお散歩されて楽しそうでした」

いつもお世話になりっぱなしの和田さんに、
私は頭を下げる。
この施設に入所させて本当によかった。

「お母さん、今日は私の誕生日なの」

「そうだったの。ごめんね、忘れていたわ。
お誕生日おめでとう。みんな元気?」

「元気よ。健の家族も来てくれてね。
美奈ちゃんが大きくなっていて驚いたわ」

母は目を細めて微笑んだ。

「私は今、幸せ。
お母さんが私を育ててくれたおかげよ。
ありがとう」

「ねえ、綾」

母は少し疲れた顔をした。
腰痛持ちの母には面会も
負担になっているのだろうか。

「お願いがあるんだけれど」

母が小さな声で言った。

「なあに?」

背後に一瞬視線を走らせた後、
母はいっそう猫背になって画面に顔を近づけた。

「花をね、送ってほしいの」

「お花?どうしたの急に。
わかったわ、沢山送ってあげる」

「覚えてる?」

「何を?」

母は画面越しに私をじっと見つめてきた。
母の瞳を見るうちに
遠い昔の何かがカチリと音を立てた。
心の底がざわざわする。
髪を耳にかける母の手が、
白いミトンに包まれていることに気づいた。
指先のあたりに血が滲んでいる。

「お母さん、手袋してるの?」

和田さんが立ち上がり画面いっぱいに映り込む。

「裕子様は手荒れが目立つので、
潤いを保つために
夜はミトンをしてお休みになるのです」

「そうだったんですか」

和田さんの笑顔が再び後ろへ下がると、
母はいつのまにか車椅子に座っていた。
他にも部屋に誰かがいて、
その人が母を車椅子に乗せてくれたらしい。

「そろそろお時間よろしいでしょうか。
長時間の面会は
裕子様にもご負担になりますので」

「わかりました。ありがとうございました」

私は和田さんに感謝を述べた。
和田さんが母の乗った車椅子を押してゆく。

「お母さん」

私は大きな声でもう一度母に声をかける。
母がゆっくりとこちらを振り返る。

「花、送るからね、必ず。待っててね」

母の目がかすかに潤んだのがわかった。
母は何度も頷くと、
おやすみという口の形を残して
部屋を出て行った。

「では失礼します」

穏やかな和田さんの笑顔が
iPadからぷつりと消え、
真っ黒で無表情な画面だけが残った。

母に花を送るのだ。
職員の誰にも告げず、不意打ちがいい。
母の最後の眼差しが私の胸に焼きついていた。




「素敵な花が沢山届きましたね。
娘さんからのサプライズプレゼントですね」

赤、黄色、ピンク、白。
薔薇にガーベラに霞草。
嵌め殺しの窓から風が入ることはない
蒸し暑い部屋に、
花の香りが充満していた。

「裕子様は花が好きだと思い出したって。
いい娘さんだこと」

和田さんは『昼間の顔』で
花瓶の水を取り替えた。
昨日、綾が直接花を届けにきてくれたそうだが、
コロナ禍を理由に会うことは叶わなかった。
爪を剥がされた指先で花に触れる。
痺れる痛みで感覚がない。
綾。
花びらが音も立てずにはらりと床に落ちた。


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