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彼女のおなかの虫に感謝した日。

仕事終わりに入った店のカレーは、
いつもよりやけに美味しかった。
そのことを今も覚えている。
『ちょっとした嬉しいこと』は、
食べるものにも
魔法のスパイスをかけてくれるらしい。




大学卒業後に就職した職場での話だ。
私はまだ若く、至らないことばかりの日々だった。
そこでのことをここに綴ろうと思う。


気の合わない人と仕事をともにすることになった。
さあどうする。

私より二年あとに入社してきた白石さん(仮名)は、
性格も思考回路も物事の好みも
私とはまるで違っていた。
人の間違いや気に入らない点を
すぱっと斬るように早口で告げる白石さんは、
後輩ながら皆から恐れられていた。
何人かで行う作業も
独断で進めてしまうようなところがあった。
そんな切れ味鋭い白石さんの方でも、
私のことは自分とは違うタイプの人間だと
早くから察知していたのだと思う。
どうもイケスカナイ奴だと
思われているふしがあった。
それなのに一緒に仕事をする?
もっともやりづらいパターンだった。
そんなの仕事帰りにビールでも飲まなきゃ
やってられない。


白石さんとチームを組んで仕事を始めた時、
心情的にはかなり厳しい時間を過ごした。
棘が刺さり抜けない痛みを感じながら、
白石さんと並んで仕事をしていた。
横並びだから、視線も気持ちも交わらない。
言葉もろくにかわさず、
ただ自分のやるべきことをやり、
必要とあれば相手に回すという
ぎこちないやり方だった。
当然意思の疎通もない。

酷く忙しかったある日。
納期の時間までにこなすのが難しい状況になった。
他にフォローしてくれる人もいない。
二人きりでなんとかするしかない。
意を決して、相手と向き合うしかなかった。
そこで初めて
二人揃って同じ方向を見ている感覚が
生まれたのだ。
注意深く観察すると、
白石さんは飲み込みが早くてフットワークが軽い。
私はといえば、
全体を見渡して足りないもの必要なことを
掴むのが得意な方だった。
走り手と補い手。
私たちの両輪が
カチリと音を立てて嵌ったのだった。
それからは
個人的な感情は一旦置いておき、
自分が何をしたら物事がうまく進むか、
相手が何を求めているかを読み取りながら
進めてゆくことに心をくだいた。


昼休憩の時間を過ぎても、
私たちはまだ仕事に没頭していた。
ぎくしゃくしながらも、
仕事と割り切って
黙々と作業をこなしてゆく私たちだった。
その時、
休憩室で同僚が食べていたカレーの匂いが、
オフィスにまで流れ込んできた。
空腹であることを急に思い出した。
ああ、お腹が空いたな。


ぐぅ〜。


その瞬間、白石さんのお腹が鳴った。
かなり大きな音で、はっきりと。
彼女は咄嗟に私のほうを振り向いた。
ばつが悪そうな、恥ずかしそうな顔をして、
ふはは。と彼女は笑った。
そして何故だか私たちは猛烈に可笑しくなって、
二人して笑ってしまったのだった。
剃刀のような白石さんが爆笑する顔を、
私はその時初めて目にした。
天を仰いだり、
体を二つ折りにして机に突っ伏したりして、
二人とも顔を真っ赤にして笑いに笑った。

「キリがいいから、この辺で昼休みにしようよ」

「そうですね。そうしましょう」

「カレーの匂いって、たまらないよね」

「そうなんです、カレーが大好きだから」

「駅のそばのカレー屋さん、行ったことある?
あそこのカレーはすごく美味しいよ」

「そうなんですか。ナンついてます?」

「もちろん。
手ぬぐいみたいにデカいナンが出てくるよ」

白石さんはそこでまた、ひゃははと笑った。

「カレーにはやっぱりラッシーだよね」

「それはもう、当然ですね」

笑いすぎて目尻に流れてきた涙を拭いながら、
白石さんが私ににっこり笑いかけた。



笑ったことで二人の間の緊張感が解け、
午後の作業は
昼前よりも格段にスムーズにいくようになった。
白石さんを覆っていた棘の付いた鎧が、
少し軟化したのがわかった。
それと同時に
私自身の中にも変化が起きていた。


相手の求めているものを知るには、
目を合わせるしかない。
表情も見ずに息を合わせることなど、
ほぼ不可能なのだ。
笑顔には
敵意がないことを相手に知らせる意味もあり、
またリラックスする効果もあるのだという。
初めて笑い合ったことで、
私たちの間の空気が柔らかなものに変わったのを
感じたのだった。



自分にはないものを持つ人。
そういう人に触れることで、
自分の視野が広がってゆく。
考え過ぎて動けなかったり、
自分一人では到底思いつけなかったことを、
違う視点を持つ人が教えてくれることもある。
相手に少しでも歩み寄ることで
お互いの間に思いやる気持ちが生まれる。
その結果、
仕事もうまく流れに乗ってゆくことがあるのだと
実感した出来事だった。
あの爆笑カレー事件は、
気が合わないからと敬遠してきたけれど、
最高のバディにさえなれたかもしれない
彼女のことを、
知りたいと思うきっかけになった。

その日の私の夕食は、
文句なくカレーに決定だった。
白石さんもカレーを食べただろうか。




カレーを食べるたびに、
美しいのに仏頂面の白石さんが
思い切り笑った顔と
あのヒリヒリする日々を、
今でも思い出してにやりとしてしまうのだ。






文章を書いて生きていきたい。 ✳︎ 紙媒体の本を創りたい。という目標があります。