イパネマの娘・エイリアンズ・インザモーニング

もしもこの世の記憶から
音楽が消えてしまったとしても、
心の奥底で眠り姫のように横たわる歌がある。
時空を彷徨うマッチ売りの少女が暖をとるために、
売れ残りのマッチ三本に火を灯す間。
そこでだけ音楽が流れることが許されるとしたら、
あなたの火の中には
ゆらりゆらり
どんな音楽が立ち現れるだろうか。



星の数ほどある音楽のなかで、
これは自分のためのものなのだと
美しく誤解するほどに、
気持ちに寄り添う歌がある。
昨日の失恋に、
これから挑む闘いに、
表しきれない悲しみや喜びに。
隣の人の鼻唄が
今の気持ちにシンクロすることだって
あるかもしれない。


私の中での
人生最大&三大フェイバリットソングスは

⑴『イパネマの娘』
アントニオ・カルロス・ジョビン

⑵『エイリアンズ』
キリンジ

⑶『イン・ザ・モーニング』
ビージーズ

この三曲だろうなと思っている。
もちろん好きな曲なら
秋の落ち葉の数くらいたくさんある。
椎名林檎だって
藤井風だって大好きだ。
アーティストによらず、
好きな曲だけをあげ出したら、きりがない。
この三曲はいわば、
落ち葉の中にリスが隠したどんぐり的なもの。
リスはきっと、
どこにどんぐりを隠したかなんて
覚えてはいないだろう。
これは私自身が
心の中の落ち葉の山を掻き分け
湿った土を少し掘り起こして、
探し出した大切などんぐり(私にとっての名曲)
なのだ。



長い間ずっと心に棲み続ける曲には、
心象風景がついて回る。




《イパネマの娘》
昔々ある夏の夜、新宿のミュージックバーで
リクエストに応えてギタリストが弾いた曲だった。
それまで店内では
流行ソングばかりがリクエストされ、
繰り返し演奏されていた。
ギタリストもバイオリニストも
少しうんざりしていたように思う。
私のグループ内の先輩が
『イパネマの娘』をリクエストした時だけ、
ギタリストは楽屋に引っ込んで
しばらく練習していたようだった。
登場したギタリストが
『イパネマの娘』を奏で始めると、
食事とお酒と談笑に夢中だった店内の人々が、
曲の鳴る方に顔を向けて聴き入った。
それこそが、
音楽が人の心に届いた瞬間だった。


『背が高く、日焼けして、若く、素敵』な
脚の長い女の子が(歌詞の翻訳より抜粋)
砂浜を歩く後ろ姿が見える。
暑い陽射しと波音が
そこにあるようだった。
想像の中のイパネマの娘は、永遠の夏の中にいる。
演奏が終わると、
その日一番の拍手の音が響き渡った。
指笛とスタンディングオベーション。
忘れられない夜になった。



《エイリアンズ》
イントロから痺れた。
イパネマの娘といい、
エイリアンズといい、
私はこういったコード進行が
とても好きなのかもしれない。

薄紫色の宵闇迫る屋根の上で、
ふたりのエイリアンが膝を抱えて
風に吹かれている光景が浮かぶ。
あちらこちらで街の電燈が点く。
あたりはだんだんと闇濃くなり
夜の範囲が広がってゆく。
この曲を聴くと、
夜風の匂いがありありと鼻をかすめる。
耳から入った音楽が
他の五感を鮮やかに刺激する心地よさがある。
歌詞にも心を鷲掴みされる。

《インザモーニング》
不思議なことに
選んだ三曲ともギターメインで演奏されている。
私は日頃、
アコギ弾き語りの曲があまり好きではないと
感じていたのに。
それは間違った思い込みだったのだろうか。
いや。すべては曲次第なのだろう。


『インザモーニング』は
『小さな恋のメロディ』という古い映画の中で
使われていた曲だ。
ビージーズのことは実はあまりよくは知らない。
映画のサントラとして、
こんなにもしっくりくる音楽があるだろうか!
という曲の数々にやられたのだった。
実家に映画のビデオがあり、
何度も観た。
ある少年と少女の初恋物語だ。
大人になった今、もう一度観返してみたい。
映画の甘苦さの、ビターな部分が、
よりいっそう沁みてくるような気がする。

この曲は
とても静かな声で唄われる。
起き抜けの眠い朝のような、はじまり。

『僕の人生の朝
時はゆっくりと過ぎてゆく
生き急いだりしないで
まだ朝だ
そして、きみはこれからの人生の1日を
生きていくのだから』

映画の中の
トレイシーハイドとマークレスターは、
デートで話したように
五十年経っても変わらずに愛し合っただろうか。
(もちろん映画の中でのことだけれど)
初恋に人は夢中になる。
寝ても覚めても、その人のことが頭から離れない。
その熱量を大人になっても
持ち続けることはできるのだろうか。
この疑問の答えは、それぞれの胸の内に。
たとえ叶わないとしても、
あの頃の眩しい気持ちは
いくつになっても守られることだろう。

『インザモーニング』は
心を優しく包み、なぐさめる。
忘れ物を取り戻した時に蘇るような、
懐かしいあたたかさが流れてくる。
日が昇っても
なんとなく抜け出したくなくて
微睡んでいる、休日の布団の中。
枕元に淹れたての珈琲があれば、
なおさら最高だと思わせる曲なのだ。



秋は、読書と音楽。
心の活動が活発になる。
少しずつ深まる寒さに
体は縮こまり、活発ではなくなるとしても。
それに反比例するかのように
心はいろいろな感情を求める。
この秋もたくさんの物語に出逢いたい。
本でも音楽でも風景でも絵画でも
それぞれに物語があり、
語りかけたがっているのだと思う。
私はそれを勝手に解釈して受け取り、
自分だけの抽斗にそっとしまうのだ。

今回は私の人生に降り積もる落ち葉の中から、
はずすことのできない音楽の中の三曲を、
ガサガサと拾い集めてきた。
こっくりと味わうのに、
ふさわしい季節だ。



文章を書いて生きていきたい。 ✳︎ 紙媒体の本を創りたい。という目標があります。