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ワンオペ育児が辛かった私が、実は一番夫に求めていたこと。

先日、小5長男が学校を休むことになった。

前日の夜、夕飯を食べ終えた直後からお腹が痛いと言い出して、もしかしたら勢い余って食べ過ぎたのかなと、しばらく様子を見ていた。これまでも勢い余って食べすぎたあとにお腹が痛くなる、というケースは何回か見ているので(子どもというのは本当に加減せずに食べたいだけ食べる…!)、そこまで心配はしなかったのだけれど、その後のお腹の痛みは、悪化するわけではないけれど変わらず停滞している状態らしく、その日は結局お風呂には入らず、早めに寝るよう促した。

翌朝、目を覚ました長男に様子を聞いてみると、まだちょっとお腹が痛いという。とりあえず、無理することもないので、学校はお休みすることにした。

学校に欠席の連絡を入れたあと、今度は、このまま家で安静にしているだけでいいのか、一応病院に連れていったほうがいいのか、を考える。この日はちょうど在宅勤務で家にいた夫にも「どう思う?」と相談してみた。

このとき、こうやって相談できる相手がいるというのはいいものだ、と改めて思った。

以前、もっと多忙だった時期の夫は、朝早く家を出て夜遅くに帰ってくる生活で、その頃の私は、いわゆる典型的な「ワンオペ育児」をしていた。今振り返ってみると、ワンオペ育児の何が辛かったかって、こういう子どもの体調不良などに対してスピード感の必要な対応や、生活の中でのちょっとした判断や選択を誰にも相談できず、全部一人でやらなければいけなかったことではないかと思う。

例えば今回のように子どもの体調不良の場合、実際に病院に連れていくという行動自体の大変さよりも、そうやって具体的に動く前の"判断するところ"が、一番難しいし負担が大きい、と私は感じる。なぜなら、判断、選択をするとき、「本当にこっちの選択でいいのか」、「もし間違えてしまったらどうしよう」、さらには「自分の選択によってその後子どもが悪化してしまったら…悪い流れに繋がったら…」とつい不安になってしまうからだ。そしてその選択を誰にも相談できず、自分一人ですべて判断して、全責任を負わなければいけないということが、私にとってはとても怖く、しんどかった。

そう、責任を負うというのは怖い。しかも自分自身のことならまだしも、我が子のこととなると、自分が選択したことによって自分とは違う人間(我が子)に影響を及ぼしてしまうということが怖い。そんなことを言えば、子育て自体が、自分以外の人間の成長の過程においていろんな選択をして、それに伴う責任を負わなければいけない行為なわけで、ビビりの私からしたら、子育て自体が実はとてもハードルの高いことなのだということを、子育て歴10年以上になった今、改めて思ったりする。

そんな私なので、そういった選択に迫られたときに、相談する相手がいて、一緒に考えて、判断、選択ができるということは、とてもありがたい。そしてやはり我が子のこととなると、私にとっての一番の相談相手はパートナーである夫だ。仮にママ友に何か子どもの懸念事項を相談して意見を参考にしたとしても、結局最終的な判断を下し、責任を負うのは親である私だ。ママ友には一切の責任は生じない。でも夫であれば、子どもは私と夫の子どもなのだから、子どもに対して同じくらい責任がある。自分と同等に子どもへの責任がある夫に相談してから判断ができれば、同じ選択をするにしても、私はすごく気が楽になるし、心強い

でもここで我ながら少々面白い、というか、ある意味やっかいなのが、相談相手として夫がその場にいたとして、実は私は必ずしも「相談」をしたいわけでもない、ということだ。

もちろん、本当に判断に迷っていて、純粋に夫の意見が聞きたくて相談をすることももちろんある。けれど、大抵の場合は(結構な確率で)ある事案が目の前に勃発した時点で、実は私は、自分の中でその事案に対してどう判断、選択するかはある程度答えを出していたりする。

表向きには「迷っている風」を装いながら、実は大体決めていたりするのだ。ただ、その最終決断を一人で下すという行為が怖いのだ(先程の責任問題の関係で)。だから、夫に最終確認をとりたいのだ。実際に決めて実行に移す前に、夫に「どう思う?」と聞きたい。もっと正確にいうと、「私のこの選択で、いいよね?」と確認をしたい。もはや、実は答えは自分の中である程度決まっているのだから、「いいよね?」と聞いたら、「うん、いいと思う」と言って欲しいのだ。

もちろん夫には夫の意見があるだろうから、それを無視したり押し殺して私に同意して欲しいということではないのだけれど、大抵の場合、"私と同じ意見だといいな"という思いを自分の中に秘めながら相談をする。

なので、相談した結果、私のそのときの感覚に対して「それは違うんじゃない?」なんて反論されたら、むしろ面倒だったりもするし、自分の判断は間違っているのかもしれないと余計な不安が生まれて、余計迷ったり、ややこしいことになる可能性もあったりする。そう思うと、そのややこしくなる可能性を踏まえてでも相談するかどうか、というのも結構重要なポイントかもしれない。明らかに自分の判断で貫きたい場合は、自分一人で判断してしまったほうがいいときもある気がする…。

…いやでも、私はやっぱり、夫と一緒に考えたい。

そう、これはもはや一緒に責任を負って欲しいから、ということだけではないかもしれない、とこれを書きながら思ってきた。相談事に対してある程度自分の中に答えがあって、それを乱される可能性がありながらも夫に相談したいと思うのは、「(目の前の事柄に対して)一緒に取り組んでいる」という事実、実感が欲しいのかもしれない。

そうなのだ。私は、「夫と話し合った」という過程が欲しいのだ。例えば今回の子どもの体調不良などもそうだけれど、そういった家族のいろんな事柄を一緒に共有したいのだ。一緒に担いたいのだ。家族として生活を共にする中で、楽しいことや嬉しいことを共有したいのはもちろん、逆にちょっとしたトラブルやハプニングや、それに伴う感情の動きも、いろんなものを、共有したいのだ。だって、二人の子どもだもの。夫、私、2人の息子たちの4人で「家族」だもの。それを全部を一人でやるのは、とても心細く、寂しい。

ワンオペ育児時代の数年間は、ほとんどのことを私一人で判断して対処してきた。もちろんとても大きな出来事や重大事項は夫としっかり話し合いの場を持ってきたけれど、それ以外の日常の雑多なこと、相談する間も無くその場で判断しなければいけないこと(生活の中には毎日そういうことが色々ある)はスピード感が大事であり、夫が不在の時はそれを全部私一人でやってきた。それはやはり、とても心細く、寂しいことだった。

だから今、こうしてそばに夫がいるならば、相談したいのだ。一緒に考えて、話し合いたいのだ。一緒に共有したいし、一緒に担いたいのだーーー。

ここで先日のお腹が痛いという長男の話に戻る。朝方小児科に連れていくかどうか一応検討はしたのだけど、実は私の中ではなんとなく「まだ様子見でいいんじゃないか」という判断の方にだいぶ傾いていた。だから、夫に相談するときも「私はまだ様子見でいいんじゃないかと思うんだけど、どう思う?」と聞いた。すると夫からは「うん、俺も様子見でいいんじゃないかと思う」という同意をもらえて、非常に安心した。

子どもの体調に対して、そのときの夫は私と同じような感覚(今の長男の状態は様子見でいいと感じる感覚)を持っていたことにも安心したし、それを共有できたことにも安心した。

幸い、その後長男は、起きがけに白湯を飲んだり水分摂取をしていたら、みるみる回復していって、ものの数時間で「もう痛くなくなった!」と一気に元気になり、病院も必要ない感じになったので、本当によかった。翌日には元気に学校にも行った。

今回は結果的に長男の回復が早かったので通院には至らず、安心の結末になったからよかったけれど、やはり、こういったときに、すぐ近くに相談相手として夫がいるということ、それ自体が私にとってはとても心強く、安心感があった。

こうやって一通り書いてみると、冒頭で書いた一人で責任を負うのが怖いどうこうという話は、もちろん一部は真実なのだけれど、結局のところ、私の中で一番根本にあるのは、夫と日々の生活の大小様々なこと(子育て含む)を共有したい、という思いなのかもしれない。

ワンオペ育児時代に何年も心細さと寂しさをずっと感じてきたからこそ、今そばにいる夫に、それを埋めてもらっているというか、当時寂しかった私が、今やっと癒やされている途中のような気もする。今、夫がそばにいる私は、とても心強く、安心している。

それはとてもありがたく、幸せなことだ。

過去のことは過去のことだし、未来は未来でどうなるかなんてわからないけれど、少なくとも今、目の前にいる夫といろんなことを共有できることが、私はとても嬉しい。

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