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理系ポスドク(海外在住)、翻訳出版する:『意識の進化的起源』翻訳記録

はじめに

前回の記事(下記リンク)は、さいわいにも多くの方々にご覧いただけたようで、さまざまな反響があった。そのなかで「翻訳したい本があったときに、実際にどう動いたらよいのかわからない」という反応もあった。

翻訳出版に至る道はさまざまで、場合によりけりだ。だが筆者が理系ポスドクとしてゼロから『意識の進化的起源』を出版した経緯は、一例として書き留めておく意義はあるのかもしれない。しかもこの時、筆者は海外在住であったので、その点でも特異な事例だろう。

そこで本記事では『意識の進化的起源』を翻訳出版したプロセスを、これから翻訳出版を目指す方々(とくに理系の若手研究者、海外在住者)の参考になるよう、解説を加えつつ述べていこうと思う。

1. 翻訳したい本を見つけ、試訳を作成する

どのような本を翻訳対象に選ぶか?
翻訳出版にまず必要なのは、当然ながら、翻訳対象となる原書である。

筆者の場合、原書にあたる Feinberg & Mallatt "The Ancient Origins of Consciousness"(原書出版:2016, 3/25) を 2016年の 10/9 に Kindle で購入したのが最初のようだ(紙の本も持っているが、入手経緯は失念:Kindle版より前ではなかっただろう:また、それ以前にも原著者らの論文——具体的には Feinberg & Mallatt (2013) ——には注目はしていたのだが、なぜこの時期まで半年も本書を見逃していたのかも覚えていない)。そしてざっと読んで、大きな衝撃を受けた。「将来的に取り組みたい課題」としてぼんやり考えていたテーマが、膨大な文献に基づいた圧倒的なクオリティで論じられていた。そして学術的に面白いだけでなく、進化生物学・神経科学(とくに神経解剖学)・心の哲学にまたがる、広い読者にリーチしうる本だと思った。

この「広い読者にリーチしうる」という点は「採算の取れる翻訳出版」を目指すうえで重要である。

学術系の翻訳出版には広く売れる順(=出版社が手を出したい順)に、
1:海外の研究者の書いた一般書 ≒ ポピュラー・サイエンス本
2:海外の研究者が、広い分野の well-educated な読者に向けて書いた学術書
3:海外の研究者が、狭い分野の専門家に向けて書いた専門書
というグラデーションがある。

1=「海外の研究者の書いた一般書 ≒ ポピュラー・サイエンス本」は、一般向けを意識しているがゆえに専門的な内容をそれほど掘り下げないし、文学的・技巧的な文体で書かれていることもしばしばなので、専業の翻訳家に向いている。高名な先生が監修となる可能性はあれど、翻訳未経験の無名若手研究者のお呼びではない。

一方で3=「海外の研究者が、狭い分野の専門家に向けて書いた専門書」は、翻訳出版したところでぜんぜん売れない(教科書は例外)。つまり、出版社の旨味はごくわずかでビジネスとして成り立たない。どうしてもと言うならということで、自費出版、良くて買い取り出版が提案されることになる(出版助成を得て出版する場合もある)。

いきおい、若手の研究者が翻訳する意義や可能性のある(門前払いされず、かつ懐を痛めずに済む)原書は、主に2=「海外の研究者が、広い分野の well-educated な読者に向けて書いた学術書」となる。

筆者の読んだ Feinberg & Mallatt "The Ancient Origins of Consciousness" =『意識の進化的起源』はまさに、この2の範囲(やや専門書寄り)に当てはまる本だと思った。

しかも、進化生物学、神経解剖学、哲学のいずれの分野もそれなりに知っている専門家は、(うぬぼれもいいところだが)自分を除いて日本にそれほどいないように思った。

こう振り返ると、筆者は翻訳対象として適切な本にめぐり逢ったのである。

試訳を作成する
そこで翻訳出版を念頭に置いて、精読しつつ試みに「まえがき」「第1章」を翻訳した。はじめて翻訳に取り組むなら、自分の実力が翻訳対象に合っているか、どのくらいのペースで翻訳できそうか確認するうえでも、(仮に将来的に企画が通らなかったとしても)まずは試訳(部分訳)に取り組んでみたほうが良いだろう。

また下に述べるように、試訳は出版企画を進めるうえでも役に立つ。

筆者の場合には原書の簡潔直截な文体が自分の文体とも合っていたこともあり(これは筆者が原書を気に入った理由でもあるだろう)、わりあいすんなりと試訳が完成した。2週間程度の作業で原書20ページほどを訳したことになる。

2. 出版社の選定、編集者との折衝

出版社の選定
あまり本を読まない人は気づかないかもしれないが、出版社には得意な分野と不得手な分野がある。極端な例で言えば、もっぱら歴史書を扱う出版社に数式たっぷりの数学書の企画を持ち込んでもお門違いである。

編集者のスキル(当然、得意分野のほうが変なところやミスに気づきやすく、分野特有の言い回しにも理解がある)や懇意の印刷所(紙面上で実際に数式を組んで印刷するのは印刷所だ)、手持ちの販路などが違いすぎるのだ。

そこで、ある原書を翻訳出版したいと思ったとき、まず適切な出版社を考える必要がある。

さらに出版社には大手と中小とがある。大手から出せれば(販路も広いので)部数を多く刷ってもらえる可能性もあるが、そのぶんハードルも高い。確実に売れるネタ、あるいは特別なツテでもなければ、門前払いとなるだろう。また大手は確実に売れる本を志向するので、上の分類で言う1=「海外の研究者の書いた一般書 ≒ ポピュラー・サイエンス本」がメインのターゲットとなる。やはり、ぺーぺーの理系ポスドクがおいそれと企画を持ち込める相手ではない。

そのうえ、当時の筆者には海外在住というネックがあった。つまり、原稿と企画書を直に持ち込んで、面と向かって説得するといった玉砕覚悟の強硬手段は使えない。

そこで筆者はツテに頼った。

これは何も悪いことではない。なんだかんだビジネスは信頼関係に基づくのであり、信頼の置ける人物からの紹介であれば出版社のほうもまずは話を聞いてみようと思うものである。

さいわい筆者は、本書の翻訳出版に適した出版社——心の哲学や生物学の哲学の書籍を数多く出版する勁草書房に繋がりのある、哲学者T氏(とくに名を伏せる理由はないが、あえて出す必要もないのでイニシャルにする:以下同)と旧知の仲であった。そこでT氏を介して、勁草書房の編集者であるS氏との取り次ぎを依頼した。

編集者との折衝
通常、企画の持ち込みであれば出版社の編集者さんと面と向かってミーティングすべきである。

しかし当時の筆者は海外在住であった。そして、帰国時を待って交渉をするなどといった悠長な方針を取る気にもなれなかった。原書があまりに良く思えたので、一時帰国時にでも……などと手をこまねいているうちに他の人に翻訳権を奪われないかと危惧したためだ。

ありがたいことに勁草書房の編集者のS氏は、直接ご挨拶すべきところを、とりあえずはオンラインでのやりとりでということで了承してくださった。まずはメールにて内容や権利関係の確認などを経て(後述)、Skype ミーティングを設けることとなった。

T氏にはじめて本件の問い合わせをしたのが11/1、S氏へのメールでの紹介が実現したのは11/21、Skype でのミーティングが行われたのは12/9のことである。

ここで海外在住の研究者が翻訳出版するときのアドバイスとして言えることは、とりもなおさず研究上の広い交友関係を築いておくことである。出版社とのやりとりは、なんだかんだ人情の問題である。面と向かって会って交渉するのが本来のスジだ。そこを曲げてメールや Skype ごしでも話をきいてみようと編集者に思ってもらえるかどうかは、いきなり話を持ちかけてきたどこの馬の骨ともわからぬ人物ではなく、やはり信頼の置ける先生からのお墨付きがあってこそである。

ゆえに、普段から広い交友関係を築いておくことは、悪いことではない。

さらにここで、試訳の良し悪しが効いてくる。まともな試訳であれば、紹介者の先生にとっても安心して紹介できるし、それを見た編集者も、この訳文であれば期待ができるので検討してみようと思うものである。

やはり交渉にのぞむ前に、(無駄になるかもしれなくても)1〜2章ぶんは試訳を作成しておいたほうがいいと、筆者は思う。仮に無駄になったとしても、その経験は次の機会に活かせるはずだ。

3. 翻訳権が空いているかどうかの確認

翻訳出版の際には、原書側から翻訳権=翻訳する権利を取得する必要がある。これは通常、出版社どうしの交渉で決まる。また、国内と海外の出版社を取り次ぐ「エージェント」を介して交渉することも多い(そうでない場合も、それなりにある)。

とはいえ、翻訳権が空いているかどうか確認する程度は、ふつう金銭は発生しない。出版社の編集者の方とやりとりするなかで、翻訳権が空いているかどうかは確認してもらえるだろう。

今回は、編集者S氏とメールでのやりとりがはじまった時点(11/21)でS氏がエージェントに連絡し、翌 11/22 には翻訳権が空いている旨の返信があった。

4. 企画書(もどき)の作成

編集者といえど、編集者本人ひとりがいくら「いける!」と思っても出版社の他の人々(経営陣や営業部など)の了承を得られなければ企画を通せない。

それゆえ、説得力のある(=「通せる」)企画書を作成する必要が、訳者と編集者に求められる。

そもそも訳者としては、まず編集者自身を「いける!」と思わせなくてはいけない。そこで、ホンモノの企画書とは言わずとも、編集者に話の通じる、しかもそれをもとに編集者がホンモノの企画書を作れる、企画書(もどき)の作成が訳者には必要になる。

ここで必要になるのは、大まかに以下の情報だろう。

1. 原書の情報:原書名(主題、副題)、仮邦題(主題、副題:できれば複数案)、出版社、刊行年月、版型、ページ数、図表数。
2. 訳書の予想(希望)情報:訳者、組版(縦組/横組み)、予想邦訳字数、*予想(希望)価格、*予想(希望)部数、*予想(希望)印税率。
3. 原著者プロフィール、原著者の評判
4. 訳者プロフィール、訳者の評判(自己評価)
5. 仮目次

6. 内容紹介
7. 既出の書評(評判)
8. 想定読者層
9. 翻訳する意義
10. 類書
(+その売れ行き)
11. *予定入稿年月

もちろん出版社や編集者によって、ここまでの情報は要らない、あるいは追加の情報が必要な場合があるだろう。しかしこのくらいは最終的に必要な情報だと想定しておいたほうがいい(最終的には編集者との相談で決まる:とくに語頭に*を付した項目は、相談次第な性質が強く、訳者側があらかじめ提示する必要はないだろう)。印税の話はあとで詳しく述べる。

5. 企画承認、翻訳権取得

上の情報をもとに編集者が作成した企画書は、出版社の企画会議にかけられる。そこで企画を通すか通さないか、通すなら何ページで何部刷って何円で売るのか、おおまかに決められる。

本書の場合には 1/16 の企画会議にて承認が下りた。

めでたく企画が通れば、出版社は原著側と(エージェントを介すなどにより)交渉し、翻訳権を取得する。交渉を経て、2/2 に訳者側出版社と原著側出版社の翻訳権契約が成立した。

通常この契約は2年間有効である。つまり翻訳権を取得して2年経っても出版できなければ、契約を破棄されたり訳す側の出版社が追加料金を払わなけれなならなくなったりする場合がある(ちなみに、訳者である筆者と出版社が正式な契約を交わすのはまだ先だった)。

つまり、普通は2年以内に出版できるよう、訳者にも求められるということである。ここで訳者としてのおおまかなデッドラインが定められる。

ただし本書の場合は、筆者がいち早く読者に紹介したい気持ちがあり、以下のとおり急ピッチでの出版となった。

6. ひたすら翻訳・推敲→入稿

出版企画が承認され、翻訳権が取れれば、あとはひたすら翻訳・推敲するだけである。本書は10章で構成されているが(1章あたりおよそ20ページ)、初稿の進捗状況を時系列で表すと以下のとおりである(実際には企画の承認に先んじて翻訳を進めていた)。

10月中旬? 翻訳開始
11/1 「はじめに」「第1章」訳出完了
11/6 「第2章」訳出完了
12/6 「第3章」「第4章」「第5章」訳出完了
12/21 「第6章」訳出完了
1/5 「第7章」「第8章」「第9章」訳出完了
1/11 「第10章」訳出完了、全体の初稿が完成

あらためて振り返ると、かなり急いで訳している……。3ヶ月ほどで初稿が完成していることになる(海外在住で夜に飲み歩くこともなく、暇を持て余していたのだろう)。

この初稿をもとに、T氏やS氏のチェック、原著者への問い合わせなどを経て推敲を重ねた。

そして最終稿として入稿したのは、4/29 のことである。

7. 校正作業

入稿後、編集者による編集作業、印刷所による組版を経て、初校が作られる。初校を受け取ったのは 5/31 である。ここから、著者校正を行う。

海外在住であった著者は、pdf 形式で出校してもらい、iPad Pro と Apple Pencil を使って、GoodNotes というアプリを使って指示を書き込んでいった。一例として、あるページの実際の画像をお見せしよう。

校正

(注:さまざまな指示のパターンをお見せするため、あえて指示の多いページを選んだ。一応、他のページでは赤入れはもっと少ない)

鉛筆での書き込みは、編集者S氏による提案である。訳者として採用する場合、赤丸で囲んでいる(不採用ならバツ)。また明らかな間違いは、S氏があらかじめ赤ペンで指示を入れてある(たとえば第2段落2行目の「うちわ」に「トル」という指示が入っている)。

そのうえで、あらためて変更を加えたい箇所に赤ペンで指示を書き込んでいくのだ。

今回は1週間ほどかけて初校作業を行い、返送した(6/7)。その後、指示をもとに印刷所が再校を作成、出校する(6/16)。今回はこの段階で、外部校正者による校正が入った。その校正を経た再校を筆者が受け取ったのは 7/1 のことである。

そこから再度、著者校正を行って返送する。大きな問題もなく、訳者の校正作業はここで終了。あとは編集者による最終チェック(念校)を経て校了となった。

8. 索引づくり、カバーデザイン・帯文の検討

再校作業に前後して、索引の作成やカバーデザイン・帯文の検討などを行う。ここも場合によりけりだし、こまごまとした話になるので割愛する。

9. 価格・印税の決定、契約

再校を返送したあたりでページ数がほぼ確定するので、販売価格の見積もりが出た。そこで印税をどうするのかも検討することになった。一口に印税と言ってもいろいろな種類(実売方式だの発行部数方式だの)があるし、印税の交渉も企画書段階で済ませてしまう場合もあるようだ——本件はあくまで一例であるとご留意いただきたい。

むしろ重要なのは、印税交渉の心構えだろう。印税交渉は、いわば著者と出版社(編集者)とのビジネス交渉である。

著者側としては、できれば印税をもらったほうが良いと筆者は思う。金を取れるだけの仕事をした自負があるのなら、対価を得るべきだ。逆に、印税を取れるだけの責任感と「プロ意識」をもって仕事に取り組むべきだ。

出版社としては、印税の払いが少ないほうが「原価」を抑えられるので、できるだけ印税を少なくしようというインセンティブがはたらく。しかし、やみくもに印税を安くし続ける=原価を値切り続ければ、書き手=資源=原材料が枯渇することくらい、出版社もわかっている。そのうえ、確実に売れるのならば、むしろ喜んで印税を支払う。売れっ子の作家には通常より割の良い印税が設定されるそうだ。これもビジネスとしては当然だ——貴重な「原材料」には高い金を支払う価値がある。

そこで考えると、それほど部数を刷らない学術書はどうしても印刷費がかさんで「原価」がもともと高くなるし、翻訳の場合は原著者側に払う著作権料=ロイヤリティもある。しかも、無名の若手研究者の訳では売れるかどうかかなりあやしい。いきおい印税は低めに提示され、印税なしを提案される場合もある。定価との兼ね合いもあり、著者としてもなるべく安く売りたいので、安い定価を実現するために印税なしを了承する考えもある。しかし上に述べたように、わずかであっても印税はもらったほうが良いと筆者は思う。

印税と販売価格について訳者と出版社(編集者)が合意できれば、本契約となり契約書が取り交わされる。本来ならば執筆依頼段階で契約書を交わすべきらしいが、定価が決まるこの時期になることが多いそうだ。

10. 出版開始

ここまでくれば、本自体に対する訳者の仕事はなくなり、出版を待つだけになる。あとはできるだけ宣伝に勤しみ、多くの人々が手に取ってくれるよう願うだけだ。

まとめ

以上、筆者の体験を記してきた。この場合は急ピッチの作業であったため、スケジュールの点はあまり参考にならないかもしれないが、大筋の流れは典型的であり、翻訳出版を目指す方々の参考になると思う。

また海外在住ならではの苦労や工夫も、いま海外に在住しつつ翻訳出版を目指す方の参考になればさいわいである。海外在住でなくても、地方在住なら同じ手段を取ってみる意義はあるかもしれない。オンライン化が進む昨今の事情を鑑みれば、これからは編集者側も快くSkypeでの交渉に応じてくれるかもしれない。

参考資料

Web上には他にも、翻訳出版の記録や体験記がある。ここで本記事とは別の例としていくつか紹介しよう。

↑企業に勤めつつ、物理学系の翻訳を16冊も手がけた樺沢宇紀氏のページ。一般向け(グリビン『ニュートリノは何処へ?』)から専門書(ツヴィーバッハ 『初級講座 弦理論(基礎編・発展編)』など)まで、各書の出版経緯などの裏話が読めて面白い。

↑Szepesvari『速習 強化学習』を翻訳出版した経緯、Tipsの解説記事。とくにIT系の原書を複数人で翻訳する場合には、GitHubで原稿を管理するなどのアイディアは有用だろう。

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