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書くことは何かの手段ではなく試み


うまく言えない時、うまく書けない時、うまくいかない時って誰にでもありますよね。
こんなにすごい人でもそんなことあるの!?って思うことがよくあります。

でも、もう分からない!って投げ出さず、分からないなりに続けてみることが大切なんだと思います。

分からないままでも、伝えてみる、書いてみる、認知してみる。
結局なにも分からない、考えれば考えるほど、答えは遠くに行ってしまうような感覚も理解してみる。
煮詰まった時にもとにかく手を動かしてみる。

その先でしか見ることのできない景色が広がってるのではないかと思います。

何かの手段ではなく試み

書くことが好きだから書く習慣を続けると決意しました。
このことが自分と向き合う手段となるのかは正直分かりません。
そして、自分が成し遂げたいこと、なりたい姿に結びつくかも分からない。

でも、手段ではなく試みと捉えてみることにしました。
自分を知るための試みの一つとして書くことを生活の中に取り入れる。

手段にしてしまうとものすごく思考が固定されてしまうような、縛られるような感覚になります。
そして、そこには失敗も潜んでいるような気がするのです。

自分と向き合うための手段として書く
自分と向き合うための試みとして書く

前者の場合、書くことで自分と向き合うことができなかったら、できなかったと諦めてしまうかもしれない。
でも、後者は書くことで自分と向き合うことができなければ、別の方法で次は試みてみよう。

自分と向き合うための習慣はたくさんあるはず。
その試みの一つとして、今は書いてみるんだと気負いせずに取り組めるような気がするのです。

真面目になりすぎると楽しめない

何かに向き合うことって嬉しいこともあれば、大変なこと、ときに苦しくて辛いこともあります。

写真家の方のインタビューで、写真に真面目に向き合うことで、だんだん楽しめなくなった時期があったと書いているのを読みました。

真面目に最短で理屈で結果を出そうとすればするほど、どんどん視界は狭まり、表現の幅が小さくなっていく。

遊びごころ、シンプルに楽しいと思えるワクワクした感情こそが自分の幅も広げてくれるのではないか。

純粋に楽しむ心が表現に活かされて、人の心を動かすようなものになっていくのではないか。

そんなふうに思うのでした。

まずは、自分で自分のことを縛らない、心地よい状態を作る習慣の中で、よく分からない「何か」を見つけにいくために、書く試みに取り組んでいこうと改めて決意しました。

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