カフェオレと赤いギター(note版)
1. 青い三角屋根
2. 理想の喫茶店
3. ハルとはる
4. 台風襲来
5. 赤いポルシェ
6. アダージョ
7. 私の残念な話
8. 時には昔の話を
9. エゴイスト
10. 月光
11. 結婚式の朝
12. 小さな宇宙
13. 終わりを告げるフクロウと馬
14. いのちの名前
15. 帰るまでが遠足
1. 青い三角屋根
バス停に辿り着くと、全身の力が一気に抜けた。
「…うそでしょ?」
思わず、声に出る。ぜぇぜぇと肩で息をする。
そこまで長い坂道を登ってきたから、さすがの私も限界だ。
背中のギターが重い…、宅配便で送れば良かったかなぁ…
でも、悪いのは私。
乗り換えの駅で反対方向の電車に乗ってしまったから。
それが全ての始まりだ。
膝に手を置いて、バス停の時刻表を睨みつける。
15時のバスを最後に、その後は終日空欄だった。
「…今、何時なのかな…?」 スマホは充電切れ。
町役場を出た時には、ロビーの時計はもうすでに15時半だったような…
「バス…、遅れてたりしないかな?」
淡い期待…だけど、さすがに望みは薄そう。
ぎゅるぎゅるぅ~
途方に暮れてる私に、容赦なくお腹の虫が鳴く。
こんなヤバい状況でも、お腹って空くのね…ってか、
こんなにお腹が空いてること自体がヤバいかもしれない。
山間の県道…辺りを見回しても、農家の畑か作業小屋しかない。
「…うっ、つらっ…」
誰か聞いてるわけじゃないけど、泣き言が零れる。
そんな私に容赦なく、強風までもが吹きつけてくる。
「ひぃ~」
夏の終わりの空の蒼に、白い雲が流れていく。
朝はあんなに穏やかな天気だったのに、
昼過ぎから時折、強い風が吹きつけるようになってきた。
スカートを押さえる。
セットした髪はもうぐちゃぐちゃで、前が良く見えない。
イベント出演用にせっかく可愛くしてきたのに…、それに、
背中のギターがまともに風を受けて、それを押し返すのがホントにきつい!
「…もう、ホント、何なんだ!」
目の前の木がごうごうと唸って撓る…次の瞬間、私の泣きっ面の顔が一変する。
強風に煽られて木が撓った瞬間、斜め先の林の中に何かを発見した。
青い三角屋根!
…間違いない。あれは作業小屋なんかじゃない。
なにか…もっと素敵な匂いがするものだ!
私は背中のギターを背負い直すと、三角屋根を目指して歩き出した。
2. 理想の喫茶店
「…やった、当たりだ…」
再び肩で息をする。でも、それほど疲れを感じない。
青い三角屋根は、やっぱり農家の作業小屋なんかじゃなかった。
緑豊かな森の中に、ひっそりと佇む二階建て。
入り口には、『喫茶 森樹の里』というプレートが嵌められていた。
カフェだ! 食事メニューもありそう!
ショーケースには、サンドイッチやワッフルの美味しそうな見本が並ぶ。
捨てる神あれば、拾う神あり…まさに、この間、広辞苑で調べたシチュエーション!
息を整えると、私はドアノブにそっと手をかけた。
…なんだかドキドキする。家が喫茶店をやっているからかな。
新しいお店に入る時は、ある意味、ときめきのようなワクワクがある。
さっきまでのどん底だったメンタルが嘘みたい。
グっと扉を押して、私は中に踏み入れた。
カランカラン。
扉に取り付けられたベルが鳴る。いい音。
「…こんにちは~…?」 …人の居る気配がしない。
ええぇ、まさか…もう、営業終了~?
「す、み、ま、せーん、まだやってますかぁ~?」
少し待ってみたけど…、返事はない。
返事を待つ間、ほの暗い店の照明に目が慣れてくる。
次の瞬間、目の前に広がる光景にため息が漏れた。
「…うそっ、このお店、すごっ…」
内装の美しさに心奪われる。
外から見た建屋もかなり立派だったけど、中はまた…外とは別の世界だ。
お店は全体的にロッジ風の造りで、木のいい匂いがする。
店先にはキャッシャーとカウンターが並び、奥にはテーブル席が並んでいた。
奥へ進んでみると、テーブル席の真上は吹き抜けになっている。
「…えぇ、最高かよ」
二階の窓から差し込む日の光が、キラキラと影を落とす。
ぐるっと回廊式に、二階にも席があるようだった。
ステンドグラスのライト。アンティークの調度品。木製のテーブルや椅子。
きっとどれも、お店のオーナーの拘りに違いない。
まさに! 理想の喫茶店!
ふと…耳を澄ますと、何か歌のようなものが聞こえてきた。
「テラス席…?」
よくよく見ると、窓の外にはテラス席があるみたいだ。
歌のようなものは、外から聞こえてくる。
窓を開けて、外へ出る。心地よい風が吹き込む。
歌が、もっとはっきり聞こえてくる。
「シャンソン?…」 …間違いない、シャンソンだ。
テラス席に、微かに流れるシャンソン。
こんな森の中でシャンソンを聞くなんて…大好きなアニメの世界みたい。
すっかり日も傾き、西日が眩しい。
テラス席の天蓋屋根の下を通り、庭へ出る。
木々が生い茂る庭は、そのまま森へと続いていた。
その森の上に、オレンジ色の夕日がまさに沈もうとしている。
シャンソンは、森の中から聞こえてくる。
歌に導かれるように、逆光の森の奥へ進む。
…誰かが、木の根元に座っている?
傍らにラジカセを置いてその人は、木の根元に腰かけ、目を瞑っていた。
お店の人…? 眠ってるだけかな…?
近寄り、肩を揺すってみる。
「あの…、大丈夫ですか?」
白髪の、エプロンをしたお爺さん。
私が声を掛けると、その人は静かに少しだけ目を開いて、
「…お、着いたのかい? ハル…」と言った。
…え、どうして?
突然、自分の名前を呼ばれるという不意打ちに固まる…次の瞬間、
バササぁーーーーー!!!!!
「ちょっと、あんた! 何者よぉー!!」
背後を頭の上から、バサバサしたもので思いっきり殴られた!
ひぃーーーーー!! 思わず、うずくまる。
それでも、誰かが容赦なく私をなぶってくる!!
「…ちょっと待ちなさい、ハル。乱暴してはいかん…」 …え、ハル?
お爺さんが立ち上がると、私への攻撃が止まる。
「だって、こんな森の中におじいちゃんを連れ込むなんて、絶対あやしいじゃん!」
恐る恐る後ろを確認する…、
ほうきを持って、仁王立ちしている…その女の人を見上げた。
…うそ、まさか、その魔女のほうきみたいなので、殴ってたの?
「いやいや、ただ、お前を待ちくたびれて、ここでうたた寝してただけだよ」
そう言うとお爺さんは、私の頭や背中を祓いながら、
「ごめんなさいね…お嬢さん、お客さんかな…」と、私の腕を掴んで立ち上がらせた。
…何なの、何なの…
草とか、埃とか、そんなのにまみれてザラザラした自分が居た。
まだ、よく分からないまま、ほうきを持った女の人の前に対峙する。
その人は、このアニメみたいな世界には不釣り合いな、
薄くストライプの入った素敵な紺色のスーツで、とても都会的だった。
東京とかでバリキャリ働いてそうな…、私からはちょっと遠いタイプ。
そして…めっちゃ睨んでるし。
この空気に耐えられず、何か言おうと口を開きかけた途端、先手を取られた。
「何なの、紛らわしい」と捨てセリフを吐いて、お店の方へ戻っていく。
…え、マジですか? ってか、謝るとか…ないわけ…?
「さ、もう日が落ちるから、一旦、店に戻ろうかね」
呆然と立ち尽くす私の、草とか埃とかをお爺さんが祓ってくれる。
気持ちはグルグル、身体はフラフラで、私はお爺さんに連れられてお店に戻った。
3. ハルとはる
「そうかい、町興しのイベントに。中止になってしまったからね」
カウンターに座る私の目の前に、ミックスサンドイッチが置かれる。
「さ、どうぞ、召し上がれ」
…うっそ、めちゃめちゃ美味しそうなんですけど!
パンの厚みも具の多さも十分ボリュームあるけど、それに加えてミニサラダまで!
グルグルした気持ちが、
ミックスサンドイッチによって一気に鎮められていく…単純だ。
お爺さんは栄太郎(えいたろう)さんと言って、このお店のオーナー兼マスターとのこと。
70歳くらいかなぁ…、綺麗な白髪にお洒落な感じ、デニムのシャツが良く似合う。
「ハルは、カフェオレにするかい?」
栄太郎さんにそう聞かれて、魔女のほうきの女の人が無言で頷く。
カウンターの、私から左側へ三つ空けて、左手で頬杖をついて座っていた。
栄太郎さんのお孫さんで、花瑠(ハル)さん、と言うそうだ。
「…いつもの、ガツンと苦くて、ほんのり甘い感じにして」と、ぶっきらぼうに言う。
栄太郎さんが、優しく頷いた。
豆を計って、ミルに掛ける。
挽かれた豆から、コーヒーのいい匂いが仄かに香る。
それをフィルタに掛けると、
次は、ステンレス製のコーヒーポットから丹念にお湯を落としていく
コーヒーポット、パパが使ってるものと同じっぽい。
お湯を落としていくのと同時に、コーヒーの香りが一気に強くなる。
…あ、なるほどなぁ…
パパ曰く、この時の香りの立ち方で職人の腕が分かるらしい。
栄太郎さんは、私が知っている中では、かなりの達人のような気がした。
「はい、いつものね」
ハルさんの前に、カフェオレボウルが置かれる。
アンティークかな…素敵、ハルさん専用なんだろうか?
「お嬢さん、随分真剣に見てたね。コーヒーに興味があるのかい?」
ぼーっとハルさんの方を見ていた私に、栄太郎さんが話しかけた。
「あ、うちが喫茶店をやってるので。父がオーナー兼マスターをしてます」
「それはそれは…じゃ、お詫びと言ってはなんだが、一杯サービスしよう」
と、すかさず豆を取り出そうとする栄太郎さんを、「あ、いえ!」と制止する。
不思議そうに振り返る栄太郎さんに、
「…あの、私、コーヒー飲めないんです…残念ながら…」
そう、私の残念な話、その壱。
30年の歴史を誇る老舗喫茶店の娘なのに、コーヒーが飲めない…
「…え、ダサっ」 スパっ。
うっ、鋭いナイフのように、ハルさんの言葉が私の心を切る。
「これ、ハル。…まぁまぁ、じゃ、ココアにしよう」
豆を置いて、栄太郎さんがココア缶を手に取る。
…飲めないくせに、残念な気持ちが込み上げる。
私だって、好きで飲めないわけじゃない。
飲んでみたかったなぁ…栄太郎さんが淹れるコーヒー。
「喫茶店って、下の町にあるのかい?どこのお店のこと?」
栄太郎さんはお鍋にココアを溶かしながら、うちの店ことを聞いてきた。
「いえ、家は神奈川なので、うちの店も家の近くにあります」
私がそう答えると、栄太郎さんの動きが止まった。
「お嬢さん、今日はおうちに帰れるのかい?それとも、町に泊まるのかい?」
は、すっかり忘れてた!
そうだった…、今日、帰れないんだ、私。
15時のバスを最後に、その後、この町を出る手段がない…
私の顔色から察したのか、栄太郎さんがこう提案してくれた。
「今日はもう暗いから、うちに泊まるといいよ」
その提案に、ギョっとしてこっちを振り返るハルさんの視線。
「え、何言ってんの、おじいちゃん!」
「店の二階の奥の休憩室があるじゃないか。あそこに布団を運んで泊まってもらおう」
舌打ちするハルさんの視線が痛いけど…、
栄太郎さんのその有難い提案に是非、乗りたい…
「この町のためにわざわざ来てくれたのに、イベントが中止になってしまって」
…え?
「おまけに、そのせいで帰れなくなったなんて、申し訳ないじゃないか」
…いや、あの、その、ちょっと事実関係が違う…、
優しい栄太郎さんが誤解したままでもいいんだけど…、
バカ正直な性格が耐え切れずに口を開いた。
「…いえ、あの、それちょっと違っていて…」
この町に着く前に、電車を乗り間違えてしまったこと。
来る途中でスマホの電池が切れたこと。
急遽、イベントが中止になったことを知らずに、遅れて到着したこと。
その時点で、もう帰りの交通手段がなかったこと。
「あんた、致命的に何かが欠けてるわね」
ぐわしゃ!!
今度は鈍器のようなもので、ぐしゃぐしゃに心砕かれた。
「…いやぁ、たまにはいろいろ重なる時があるもんだよね」
栄太郎さんがフォローしてくれるものの、打ち砕かれた痛みの方がでかい。
「…そうだ、そうだ」
うなだれる私の肩をたたき、栄太郎さんがこう聞いてきた。
「お嬢さん、名前。まだ、聞いてなかったね」
…あ、そうだ。自己紹介、まだだった。
ハルさんの反応が気になる…でも、事実だからしょうがない。
「はるかです」
一瞬、栄太郎さんに驚きの表情が現れる。
「『遥』か彼方の『香』りと書いて、遥香(はるか)と言います」
げげぇというハルさんの嫌悪の表情とは対照的に、満面の笑みで栄太郎さんが言う。
「それはそれは。素敵な偶然だね」
4. 台風襲来
一夜明けて、この町、二日目の朝。
栄太郎さんの美味しいモーニングを頂きながら、私は朝からTVに釘付けだった。
『…大型で強い勢力の台風15号は、本日未明、本州に上陸…』
「…こりゃ、はるかちゃん、今日、帰れるかね…」
昨日の強風って…、嵐が来る前兆だったんだ。
普段、あんまり天気予報とか気にしないから、全く想定外。
…なんだか、暫く帰れない予感100%。
私って、いろんな意味で一回何かにはまるとなかなか抜け出せないタイプ。
こういう迷子みたいな状態から脱出するのにも時間が掛かりそう…
ジリリリリリ… お店の電話が鳴る。
「はい、もりのさと、あ、はいはい~ども~、…あ、そうかい…ありがとね」
知り合いの方からかな?
栄太郎さんは手短に用件を会話すると、すぐに電話を切った。
「はるかちゃん、今日はJR、一日運休らしい」
はい、終了~
「昼にバスが出るけど、それもちょっと様子見だね」
そっか、まだバスがあった。
でも昨日、乗れなかったバス…今日は乗れるかな?
「帰る前に悪いんだけど、ハルと買い物に行ってくれないかな?」
ご馳走になったモーニングのお皿を下げに行った時、栄太郎さんにこう頼まれた。
「台風の影響が出る前に、午前中にちょっと手伝ってもらえると有難いんだけど」
確かに、これだけお世話になって、何のお返しも出来ずに帰るのは申し訳ない。
一宿一飯の恩義だ。これも広辞苑に載ってた。
ハルさんと一緒に…ってのがちょっと引っかかるけど…、
「はい、喜んで」と答えてしまっていた。
5. 赤いポルシェ
「随分、いろいろ買ってくるのね」
栄太郎さんの買い物リストを見て、ハルさんが不服そうに呟く。
「台風も来るみたいだから、日用品の予備も揃えておこうかと思ってね」
栄太郎さんは変わらずニコニコ、ハルさんを宥める。
昨日のストライプのスーツとは180度違って、
ハルさんは細身のブラックジーンズに革ジャンだった…益々、距離、感じるなぁ…
「一人でも行けるんだけど」と、私に睨みを利かす。
じゃ、辞めますって言いたい気持ち100%だったけど、
「お手伝いします」と、やせ我慢してしまう自分が居るのだった…あああ。
ハルさんに付いてお店を出ると、一台の赤い車が停まっていた。
ハルさんのかな? なんか…めちゃ、かっこいいんだけど。
「何、じろじろ見てるの?」 不機嫌そうに言われる。
「いや、あの、かっこいい車だなぁ…と思って」と、褒めてみた。
流石に褒めて嫌な顔はされないだろう、と安心していたのも束の間、
「はっ!」と、めちゃめちゃ威圧感ある目力で睨まれた!
「あんた…まさか、ポルシェも知らないの!?」
…ぽるしぇ?
名前くらいは聞いたことあるけど、見たことも食べたこともない…
ちっ、舌打ちが聞こえたかと思うと、「いいから、早く乗って」と高圧的に指図される。
…もう、余計なことを言うのは辞めよう…
これ以上険悪なムードにならないよう、急いで助手席に乗り込んだ。
私がドアを閉めるやいなや、ぎゅい~んとエンジンが掛かる。
…と、そのまま弾丸スタート!
ひぃ~、後ろのタイヤがぎゅるぎゅる鳴きながら走り出す。
マジですか~、やだ~、やっぱこの人…恐い!
慌ててシートベルトを締めて、とにかく、ドアのどこか掴まれそうな部分を必死で握る。
きゅるるるるぅ~~!!!
一旦停止したのかしないのか、ほとんど停まらなかったような勢いで県道に出る。
びっくりし過ぎて、声も出ない。
ってか、昨日会ったばかりの人間を乗せて、こんな乱暴な運転。
お腹の底から沸々と、怒りが込み上げ始めた。
そんな私なんてお構いなしに、ぽるしぇはどんどん加速する。
ひょっとすると、この道は…このまま天国に繋がっているのかもしれない。
パパ、ママ、おばあちゃん、はるか村のみんな…ごめん、
私はこのまま帰れずに、先立つ不孝をお許しください…と思ったその瞬間、
ぎゅ~~~んん!!!!きゅるるるるるぅ!!!
…え、
視界が180度回転する。
周りの風景が、急にスローモーションになる。
身体が左側に引き寄せられて、ドアに押し付けられた左腕が痛い。
反対に、顔のお肉は全部、右側に持っていかれるような感覚だ。
気がつくと、順調に加速していたはずのぽるしぇが停まってた。
さっきまで爆音だったエンジンは、今度は静かな唸りになって振動し、
その振動と一緒に、チッカ、チッカという小気味良い音が響いていた。
「え、え、何?何?」
「うっさいわね、戻るわよ」
ハルさんがそう言うと、ぽるしぇはまた急発進。
発進と同時に、重力の塊が私をシートに押さえ込んだ。
前から迫りくる景色は、物凄い勢いで横へ流れていく。
声も出せずに、ただただ、前をガン見するしかない。
この何分かで、今までの人生×二倍くらいの体験をした気がする…
6. アダージョ
快調な爆音でぽるしぇがお店に戻ると、一台の車とガチ合わす!
ハルさんの強引な敷地INに、先方は慌てて急ブレーキを掛けた。
運転席と助手席、ぎょっとする様子の二人組の男の人。
ハルさんはガンを飛ばすだけで、ぽるしぇも一歩も動かない。
散歩中のわんこの、出合い頭の縄張り争い。
真っ赤に唸るぽるしぇと、白くキャンキャン鳴く軽ワゴンでは…勝負あった。
おずおずと後退り、ぽるしぇを迂回するようにハンドルを切ると秒で去って行った。
ぽるしぇは勝ち誇ったように、ぎゅ~んと唸ると、
豪快にハンドルを切って、またまた乱暴にドンと急停止。
シートベルトに締め上げられた勢いで、自分の感情が戻ってくる。
…な、何なの…? 何が起こっているのか…全く分からない。
訳も分からないまま、なんだかもうクタクタだった。
さっきまで、何か言ってやろうと思っていた私の怒りも、すっかり戦意喪失だ。
エンジンを切るとすぐに、ハルさんは車を降りた。
私も慌てて、ハルさんの後を追った。
カランカラン。
扉に取り付けられたベルが、変わらずいい音で鳴る。
お店に入ると、栄太郎さんは奥のテーブルを片付けているところだった。
一瞬チラッとこちらを見た…、あれ?
急に戻ったけど、あんまり驚いていない。
ハルさんがツカツカと、栄太郎さんの元へ向かう。私も、それに続く。
「…随分、早いお帰りだね」
テーブルに視線を落としたまま、栄太郎さんが尋ねた。
「不動産屋が何の用だったの?」
間髪入れず、ハルさんが問いかける。
不動産屋?…あ、さっきの白い軽ワゴン!
さっきの出合い頭のガン見…、ってか、めちゃめちゃ観察してたんだ。
いや…全然、知らないし。でも、なんでそこ?
無機質に切り込むハルさんと、一ミリも動じずに応じる栄太郎さん。
何が始まるのか分からずに、見守るしかない私。
「…うん、見積もりをね…、届けに来てくれてたんだよ」
「見積もり!?」 ハルさんが語気を強めた。
その振動が空気を割くと、音に敏感な私には緊張が走る。
なんだろう…黒いモヤモヤが、心の中でグルグル回る。
「ハルには…改めて、ゆっくり話すつもりだったんだ」
片付ける手を止めて、栄太郎さんが真正面に向き直った。
「店をね、手放すことにしたんだ」
ドン!と空気砲のような衝撃が、仁王立ちのハルさんにぶち当たった。
しかもそのままの勢いで、後ろに居る私にも激突した。
「…はっ!?」
ハルさんの声のトーンが変わる。
「…な、何言ってんの、おじいちゃん…、店は私が継ぐって言ったじゃない」
無機質だったトーンが、急にマイナーコードの哀愁を帯び始める。
その音色に、私の心もわなわなと震え始めた。
「ブランディングの戦略も考えたのよ、私に任せれば、あと30年は経営できるわ!」
駄々っ子みたいなハルさんの背中。
優しく見つめる栄太郎さんは、首を横に振っていた。
「ハルが、この店を愛しているのは知っている。でも、私の代で終わりにしたいんだ」
椅子に腰を下ろして、栄太郎さんは静かに語り始めた。
「最初は、ハルの言う通りにしようとも思ったんだよ…」
栄太郎さんの低い声を、私の耳が追う。
ハルさんのお仕事のこと、優秀な経営コンサル、自慢の孫。
そろそろ、ご高齢になってきた栄太郎さんの引退プラン。
ハルさんがオーナーになって、新しい店主兼バリスタを雇う。
栄太郎さんのことを想って、一生懸命なハルさんを見ていると言い出せなかった…、
でも、栄太郎さんは…どうしても、そのプランには乗れなかったんだ。
「この店は私でないとダメなんだ。だから、私と一緒に終わる運命なんだよ」
空気の音がまるで違う。
このお店でいつも流れている、暖かくて柔らかい音色はすっかり消えていた。
今は、怒りと悲しみの入り混じったストリングスだけが聴こえる。
「でも…手放したら、完全に他人の手に渡るのよ…、その方がもっと嫌よ」
悲痛なバイオリンが叫び声を上げてるみたい…語尾の音が耳を劈く。
キーンと鳴る耳鳴りの奥へ、
今度は栄太郎さんの低い声が、コントラバスのように入り込む。
「その心配はないよ。ここは更地になるんだ」
何かが胸の奥で、静かに砕け散った。
ハルさんの背中が小刻みに震えている。
「…え、意味、分かんないんですけど…」
震えは空気を振動させ、大きな波を作り、アルビノ―ニのアダージョのような旋律を轟かす。
もう何も聞こえなかった。
この美しい吹き抜けの中いっぱいに、アダージョだけが大音響で鳴っている。
吹き抜けを仰ぎ、視線を落とすと、栄太郎さんの顔が目に入った。
怒りでも悲しみでもない、目線を落としたまま、黙っていた。
その表情を見た途端、今まで堪えていたものがとうとう限界を迎える。
「…ちょっと待ってよ、相談もなしに、…?」
振り返るハルさん。顔を上げる栄太郎さん。
やばい、だめだめ、と分かっていても、
それは足元から這い上がり、横隔膜を押し上げて、私の口から一気に吐き出てきた。
「…え、ちょっとあんた、何泣いてんの、」
ばかばかばか。号泣だ。
塞き止められていた川は、その分大きなエネルギーを放出する。
こうなると、もう自分では止められなかった。
「…ごめん、ごめんね、はるかちゃん、君まで泣かしてしまうとは…」
立ち上がった栄太郎さんは、嗚咽する私に近寄り、優しく背中を摩った。
「…なんで、無関係なあんたが泣くのよ…たくっ、調子狂うわね」
「これ、ハル…」
例のごとく捨てセリフを吐いて、ハルさんはお店を出て行った。
出ていくハルさんを見送ると、栄太郎さんは私の背中を優しく叩き始めた。
まるで赤ん坊でも宥めるかのように…そのテンポは引き続き、アダージョだった。
静まり返ったお店の中に、そのアダージョのリズムだけが響いていた。
7. 私の残念な話
『…豪雨の後は、明日の朝まで強い風が残ります。引き続き、警戒を…』
休憩室の障子を開けて畳の上に上がると、私はリモコンを手に取りテレビを点けた。
泣き腫らした身体は、熱いシャワーによって幾分か落ち着いた。
昨夜泊めてもらったこのお部屋に、今夜もまたご厄介になることとなった。
私の号泣が引き金になったのか、あの後、滝のような雨が降りつけた。
午後に急激にスピードをあげた台風はこの町にも接近し、電車もバスも終日運休。
私の予感通り…今日もまた、帰れなくなってしまった。
買い物にも行けず、栄太郎さんは冷蔵庫にあるものでご飯を作ってくれた。
たけど、その夕飯の食卓に、ハルさんは顔を出さなかった。
「…なんで、泣いちゃったんだろう…」
ボーっとテレビを見ながら、そんなことを呟いた。
でも、なんとなく理由は分かってる。
あの時、栄太郎さんの顔を見た時、おじいちゃんのことを思い出したんだ。
最初に栄太郎さんを見た時から、気づいていた。
白髪の、エプロン姿の。
亡くなったおじいちゃんみたいで、ちょっとドキっとした。
おじいちゃんも最期、栄太郎さんみたいな表情だった。
それは今でも、目に焼き付いている。
パパの店は、元々、おじいちゃんのお店だった。
小学生の頃はよく、学校帰りにおじいちゃんのお店に寄った。
決まって、おばあちゃんがホットケーキを焼き、おじいちゃんがココアを入れてくれた。
放課後、落ち着いた大人の憩いの空間みたいなお店で、ココアでホットケーキを食べる。
贅沢な小学生だった。
ある日、おじいちゃんに聞いてみた。
「おじいちゃんは子供の頃から、喫茶店のマスターになりたかったの?」
お客さんのコーヒーを淹れてる最中のおじいちゃんは答えなかった。
コーヒーを淹れ終わると、カウンター越しにこう答えた。
「うーん、どうかな…、でも旨いものを作って、人に喜んでもらうのが好きなんだ、きっと」
今でもその言葉は、私のお守りみたいなものだ。
そんなおじいちゃんが急に倒れて、入院した。私が高校生の時だった。
最初は、少し休んで良くなったら、おじいちゃんは帰ってくる、そう思ってた。
でも、おじいちゃんはどんどん弱っていき、とうとう寝たきりになってしまった。
パパとママとお見舞いに行くと、痩せて横たわるおじいちゃんはまるで別人みたいだった。
静かに目を開けて、パパの顔を確認すると、いつもこう言っていた。
「…更地にしてくれ」
おばあちゃんのこと、お客さんのことを心配し、最後に店のことはいつもこう願った。
『…更地にしてくれ』
ショックだった。
あんなにお店を愛していたおじいちゃんが、そう願ったのは。
そう願うおじいちゃんの悲痛な顔も、見ていられなかった。
でも、私以上にショックだったのは、パパだったんだ。
「…あー、父さん、大丈夫だ、俺が店をやるよ。だったら、更地にしなくていいだろ?」
パパの突然の告白に、家族全員が目を見開いた。
おばあちゃんもママも私も、一ミリも予想してなかったことが起きた。
一番驚いたのはおじいちゃんだったはずだ。
今にも飛び起きそうな勢いで、目を見開いていた。
苦しそうに何度か息をすると、静かに首を縦に振って、頷いているようだった。
その後、怒りでも悲しみでもない、静かな表情をした。
その顔が、さっきの栄太郎さんと重なる。
人は何かを手放すと決めた時に、ああいう顔をするのかな?
そんな風に思えた。
カーテンの隙間から、外を見る。
雨は少し弱まってきたみたいだけど、強い風が森の木々をぐるぐる掻き回していた。
今夜のハルさんの心も…こんな感じなんだろうか?
ううん、違うな…ハルさんじゃない。私の心だ。
おじいちゃんのことを思い出すと、いつもザワザワする。
嘗て、私にお守りをくれたおじいちゃんに、私は今、胸を張って言えるだろうか。
私もおじいちゃんのように、ただ真っ直ぐに、好きなことに向かっていると。
子供の頃から夢だったシンガーソングライターになるため、会社を辞めた。
オリジナル曲で初アルバムをリリースし、初のワンマンライブも開催した。
そこまでは良かった。そこまでは勢いがあった。
だけど…それは、私がコントロール不可能な世界線によって、一変した。
世界は、気軽に外出したり、友達に会ったりできないものへと変わった。
人前で直接、歌を届けることも難しいものになった。
急に、張り詰めていたものが…ぷつっ、と切れるような感覚。
バイトに行って、キャスト配信して、ただ眠るだけの毎日。
詩を創って、歌を届けることへの情熱が…乾き始めていた。
マスク生活も二年目の今年に入ってからは、少し状況も良くなって、
時折、リアルのイベントに呼ばれて、歌を届けることも出来るようになってきた。
でも…私の心は何故か、依然、乾いたままだった。
イベントに呼ばれれば、楽しく歌える。でも…何かが、以前と違っていた。
嘗てのような情熱の泉を、取り戻せずにいた。
これが私の残念な話、その弐…なんだ。
8. 時には昔の話を
翌朝、この町、三日目の朝。
目覚めると、足早に流れる雲の隙間からは日が射していた。
台風一過。風はまだ強いものの、今日は少し暑くなりそうだ。
お店では既に、栄太郎さんがカウンターでモーニングの準備中だった。
私に気づくと静かに微笑んで、そっと朝食を出してくれた。
それは昨日と変わらず、とても美味しそうだった。
カウンターに座り、朝食を頂く。見た目通り、美味しい。
こんな時でも、美味しいものは美味しいと感じる素直な自分がちょっと憎らしかった。
静まり返ったお店の中で、朝のニュースだけが一人寂しく、語っていた。
耳を澄ましてみても、近くにハルさんの気配は感じられない。
神妙な面持ちの栄太郎さんの横顔…、なんとなく身の置き場に困っていた…その時、
カランカラン。
「栄さん、おっはよぉ!」
いつものベルが鳴ったのと同時に、めっちゃテンション高めの声が入ってきた。
そこからぞろぞろと数人の、ご一行様が現れた。
小柄でタフそうなおばあさんを先頭に、
細身の仙人みたいなおじいさんと、ツルツルでお地蔵さんみたいなおじいさんと、
フランス人形みたいなフリフリのおばあさんが、楽しそうに話しながら現れた。
「栄さん、いつものお願いね!」
先頭のおばあさんが栄太郎さんにそうお願いすると、ご一行様は奥のテーブル席に座った。
ちょっと驚いて、栄太郎さんの方を振り向く。
栄太郎さんは私に軽く笑いかけると、「はいよ!」と答えて、お皿を並べ始めた。
「はるかちゃん、ちょっと手伝って」
栄太郎さんにこう頼まれ、私は2人分のモーニングをお運びした。
栄太郎さんと一緒にテーブル席まで行くと、
「あれ、栄さん、誰だい?」
「栄さん、ハルちゃん以外にもお孫さん、おったんかいな」
…と、ご一行様の注目の的となる。
「違うよ、この子は他人様のお孫さん。でも、遥香ちゃんって言うだ」
「ほえぇー、はるちゃん繋がりかい、それは縁起がいいねぇ」
田舎のおじいさん、おばあさんのテンションの高さにドギマギしていると、
「ほれ、あんたもここに来て座って、一緒に食べよう」…と、誘われる。
栄太郎さんに促され、私もご一行様とモーニングの続きをすることとなった。
栄太郎さんと私が腰かけるとすぐに、
「栄さん、ハルちゃんにバレちまったんだって?」
…と、リーダー格のおばあさんが核心に迫ってきた。
まさかの私までドキっとする。もう他人事ではなくなってるみたいだ。
「…なんだよ、もうみんなに知られてるのかい?」
栄太郎さんが驚きの表情を見せる。
「ゆうべ、みんなんとこにそれぞれ、ハルちゃんから電話があったんだよ」
リーダー格のおばあちゃんの話によると、ハルさんは昨夜、
『店が更地になることを知っていたのか?』と聞いてきたらしい。
「知ってたなんて言えないからさぁ、しら切っておいたけどね」
リーダー格のおばあちゃんに続き、全員がうんうんと頷いた。地元の絆…固いな。
栄太郎さんは、昨日のことをみなさんに話し始めた。
ご一行様は聞いてるのか聞いてないのか、黙々とモーニングを食べ続ける。
一番に食べ終わったリーダー格のおばあちゃんが、堰を切った。
「バレちまったもんはしょうがないよ。このままハルちゃんを嫁に出すまでさ」
…え、嫁?
「ほんとは、ハルちゃんの結婚式が終わるまで黙っておきたかったんだけどなぁ」
「…浮かない顔の花嫁なんて、見たかないからなぁ」
「まぁ…、あの子は元々、仏頂面だから、大した変わりないけどね、ふふっ」
ガハハハハハっ
なんだかよく分からないけど、盛り上がるおじいちゃん、おばあちゃん達。
一人、置いていかれてる私に気づいた栄太郎さんが、
「ハルね、明日、結婚式なんだ。この店で」と、教えてくれた。
ええええ!!!
…マジですか…、そんな大事な日を控えてるところに紛れ込んだ私…超~迷惑者?
「ところで、あんたもハルちゃんの結婚式に出るのかい?」
いろいろ情報が大渋滞中の私に、リーダー格のおばあちゃんが切り込んでくる。
「…え、いえ、その、私は、飛んで火にいる夏の虫、って言うか…」
…あれ、これこないだ広辞苑で調べたやつけど、こういう時に使っていいんだっけ?
おじいちゃん、おばあちゃん達の視線が私に集中する。
やっぱ、言葉使い間違ってるのかなぁ…と、変な汗が出てきた、その時、
カランカラン。
いつもの心地良い音が鳴って、誰かがお店に入ってきた。
「すいませーん、遅くなって、役場に電話してから来たもんで…あ」
長身の、陽キャな感じの男の人…、あ!
「はるかさんじゃないですかぁ!どうしたんですか!まだ居たんですか、この町に!」
忘れもしない、町興しイベントの担当の人だ。
「なんだい、けんちゃん、この子のこと知ってるのかい?」
ツルツルおじいちゃんに聞かれ、担当さんが私のことを説明し始める。
「知ってるも何も、今回の町興しイベントのスターになるべき人だったんですよぉ」
へぇ、ほぉ、とまたまた、おじいちゃん、おばあちゃん達の視線が熱い。
「配信の世界では、有名な歌い手さんなんですよぉ~」
…え、待って待って、そんな風に言って頂けるの有難いんだけど、
まだメジャーデビューしてないから、おじいちゃん、おばあちゃん達が誤解しそう…
「そりゃ、大したもんだねぇ、なんか歌ってよ」
やっぱり、リーダー格のおばあちゃんが真っ先に切り込んでくる。
おー、いいね、いいね、とおじいちゃん、おばあちゃん達が次々と言い始める。
「いいですねぇ~、結局、はるかさんの歌、聞けなかったし、是非、是非!」
…ってか、担当さんまで、めっちゃ乗り気なんですけど。
頼みの綱の栄太郎さんを見ると、
「…確かに。せっかく、はるかちゃんと出会えたんだから。是非、聞きたいものだね…」
…なんて、言ってる!
でも、求められたら…歌い手としては、歌わない訳にはいかない。
「…ちょ、ちょっと待っててください」
私はダッシュで、お店の二階に駆け上がり、休憩室から相棒を運びだした。
一階のテーブル席まで戻ると、静かに相棒を床に置き、そっと蓋を開けた。
相棒が顔を出すと、おじいちゃん、おばあちゃん達からは溜息が漏れた。
「ほわぁ~、赤いギターとは、こりゃ粋だね…」
ここのところこんな状態だったから、相棒の顔を見るのは久しぶりだった。
ゆっくり抱えて様子を探る…大丈夫、元気そうだ。
いつもの自分の音階で、軽くチューニングしてみる。
相棒の声が私の声と共鳴する…うん、悪くないみたい。
「…何か、リクエストありますか?」
はい!っと、真っ先に手を挙げたイベント担当さんを抑えつけて、
リーダー格のおばあちゃんが、栄太郎さんの方を見て合図する。
「…えっと、いや、はるかちゃんが歌いたいものなら、なんでも…」
栄太郎さんらしい回答に思わず、笑みが零れた。
そうだな…栄太郎さんには…、よし、あれだ。
ギターを構える。
…あれ? ダメだ…ちょっと緊張してる…
靴を脱ぐ。素足で床を捉える。うん、ちょっと落ち着いた、よし。
ギターを抱え直す。深く吐いて、深く吸う。
歌う前の私の儀式。
身体中に空気を巡らせたら、それで大きな波を作る。
そして…歌の、詩の世界に、深く入り込んでいく。
足元からくるエネルギーは、空気の波と直交し共鳴する。
音霊が整ったところで、喉のフィルタを通して言霊に変換するんだ。
私は、栄太郎さんに贈りたかったあの詩を歌い始めた。
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時には昔の話をしようか
通いなれた なじみのあの店
マロニエの並木が窓辺に見えてた
コーヒーを一杯で一日
見えない明日を むやみにさがして
誰もが希望をたくした
ゆれていた時代の熱い風に吹かれて
体中で瞬間を感じた そうだね
道端で眠ったこともあったね
どこにも行けない みんなで
お金はなくても なんとか生きてた
貧しさが明日を運んだ
小さな下宿屋にいく人もおしかけ
朝まで騒いで眠った
嵐のように毎日が燃えていた
息がきれるまで走った そうだね
一枚残った写真をごらんよ
ひげづらの男は君だね
どこにいるのか今ではわからない
友達もいく人かいるけど
あの日のすべてが空しいものだと
それは誰にも言えない
今でも同じように 見果てぬ夢を描いて
走りつづけているよね どこかで
(「時には昔の話を」ソングライター;Tokiko Kato)
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歌い終わると…なんだか、期待とは違う状況になってるのに気付いた。
しみじみとなる…おじいちゃん、おばあちゃん達。
「ここまで…短かったような、長かったような」
「…だな、あの小さいハルちゃんが嫁に行く日が来るとはな」
「あたしたちも、歳とるわけよねぇ」
多くを聞かなくても、明日がとても特別な日だってことは、私にも分かった。
「えい!辞めなよ、湿っぽいのは嫌いだよ!」
やっぱり場を展開させるのはリーダーのおばあちゃんだった。
「あんた、明日のハルちゃんの結婚式で歌いなよ」
…へ? 感心してたところに不意を突かれた。
「えっ、え、え、え」
不意を突かれてドギマギしていると、
イベント担当さんの「いい!めっちゃいい!」という発言を皮切りに、
おじいちゃん、おばあちゃん達もその気で盛り上がってきた。
「…待ってみんな、はるかちゃんにだって都合が…」
唯一、栄太郎さんだけが私を気遣って、止めようとするけど…、
「…私、歌います!」
次の瞬間、『アムロ行きます』ばりに、そう答えていた。
おじいちゃん、おばあちゃん達の視線の集中砲火。
栄太郎さんもびっくりし過ぎて、動きが止まる。
ってか、一番驚いているのは…この私だ。どうしちゃったの、私…?
「よし、あんた、よく言った。見込みあるよ」
あとは野となれ山となれ。これもこの間、コジった(広辞苑で調べた)やつだ。
もう、リーダーおばあちゃんの勢いに乗っていくしかない!
「…んで、何を歌うんだい?」 至極…直球な質問。
「お、オリジナルを歌います」 ええぇ、言ったぁ~マジで?
リーダーおばあちゃんの目が真っ直ぐ私にぶつかってくる。
ひよるとおばあちゃんに見透かされそうな気がして、私は気持ちを固めた。
「一晩あれば、描けます」
その言葉を聞いて、うんと頷くと、リーダーおばあちゃんは私の背中をボンと叩いた。
背中のボンというのと一緒に、呼吸が戻ってくる。
まるで、今まで息を止めてたかのように、はぁはぁ呼吸が荒くなった。
そう。私の残念な話、その参。
初アルバム以来、新しい詩が描けていない。
その私が『一晩あれば、描けます』なんて、どの口が言ったの?…ほんと。
でも…わざと自分へプレッシャーを掛けて、退路を断った。
そして、更地になる前のこのお店のために、何かせずにはいられなかったんだ。
モーニングを終えたご一行様は席を立つと、ぞろぞろとお会計に向かった。
「栄さん、今晩、ハルちゃんはうちで預かるよ」
リーダーおばあちゃんが頼もしく、栄太郎さんをそう元気づけた。
私もご一行様を見送るため、レジ付近まで出向く。
ふと、レジ横の柱のフォトスペースに一枚の写真を見つけた。
ちょっと若い頃の栄太郎さんとおそらく、子供の頃のハルさん…そして、もう一人…、
「八重ちゃんだよ。ハルちゃんのおばあちゃん」
食い気味で見ていた私に、リーダーおばあちゃんがそう教えてくれた。
「ハルちゃんにとって、栄さんと八重ちゃんが親みたいなもんだからねぇ」
栄太郎さんとハルさんと八重さん。
三人で写る写真の背景は、このお店のテラス席だ。
長い時を、このお店と一緒に過ごしてきた。
大切な人との思い出が詰まり過ぎた場所。
…私にも、痛いほどよく分かった。
9. エゴイスト
「…ということで、村長、今日も帰らないことにしました」
その日の夜、私は三日ぶりの配信で、はるか村のみんなにそう報告した。
はるか村は、私の配信部屋の呼び名。
キャストの私が村長で、配信に来てくれる応援者のみなさんを、
私は『村人さんたち』と親しみを込めて呼んでいた。
「なんで、一晩あれば描けます、なんて、言っちゃったのかなぁ~」
退路を断った、なんて言っても、村人さんたちを前にするとついつい弱音が出たりする。
『頑張って~~!!』
『村長なら、大丈夫』
『描けるよ、描ける!』
そんな私に、村人さんたちからの応援メッセージがスクロールされる。
その中の一つの『村長の久々のオリジナル…めちゃめちゃ楽しみ』…が目に飛び込んできた。
…だよねぇ。
なんだか…このチャンスを逃したら、もう一生、詩なんて描けない気がした。
とても静かだけど、本当はめちゃめちゃ怒涛の分岐点に立たされている。
…そんな気がして、思わず、震えた。
重い腰を上げ、後ろ髪引かれながらも配信を終了する。
気分転換に少し、歩こう。
休憩室を出ると、私はお店の一階へ降りようとした。
一階に、灯る明かり。
階段から覗くと、栄太郎さんがカウンターに腰かけていた。
「…、大丈夫かい、なんだか大変なことになっちゃったね」
近づく私に気が付くと、栄太郎さんがそう言って、苦笑いした。
手には、琥珀色したグラスが握られていた。
「コーヒーの味が分からなくなるから、普段呑まないんだけど、今日は特別にね」
隣に腰かけた私に、呑むかい?と進める仕草をしたが、遠慮した。
私も喉への刺激を避けるため、普段からあまり呑まないようにしている。
手に持っていた水のボトルを振りかざして、これでOKです、と合図した。
「みんなが言うように、本当に短かったような、長かったような、って心境だよ」
少し酔いが回っているのかな? 栄太郎さんがポツリポツリと語り始めた。
ハルが生まれた日のことは、まるで昨日のことのようだよ。
その頃、季節的にこの辺一帯にはね、青い花が咲くんだ。
空に向かって咲く青い花。花瑠(ハル)の名前の由来なんだ。
ここで八重と、ハルを育てて。ここにはいろんなものが詰まっている。
あまりにも大好きなものが詰まり過ぎているから、
残っているとなると、死んでも死にきれない気がするんだよ。
「そんな理由でここを更地にする私は、…相当なエゴイストかな?」
何も言えなかった。
誰も、栄太郎さんを否定することはできない。
その分、とても辛かった。
私は栄太郎さんに、おじいちゃんの話をした。
かつて、おじいちゃんが『更地にしてくれ』と願った話をした。
とても真剣な眼差しで、栄太郎さんはおじいちゃんの話を聞いてくれた。
全て聞き終わると、栄太郎さんは静かに目を閉じた。
暫くして、「ありがとう」と小さく答えた。
目を閉じる栄太郎さんに、私は「おやすみなさい」と小さく声を掛けて席を立った。
私ではなく、おじいちゃんが、
おじいちゃんが栄太郎さんに「いいんだよ」と、そっと肩を叩いたような気がした。
10. 月光
休憩室に戻って、相棒を抱えた。
相棒を奏でながら、いつも考えている疑問が胸に浮かぶ。
何のために歌うのか?
実はこれにはいつも、満足いく答えが出ない。
でも歌わない自分は想像できなかった。
私にとって歌うことは、生きることと背中合わせみたいなものだ。
それはきっと、切っても切り離せないって、そんな風に感じていた。
歌う理由を上手く言語化できなくても、心は何かを描きたいと疼いていた。
今この時、身体の奥底に感じる熱いものは、乾いた大地を潤すかのように湧いてくる。
この湧き上がるものと同じように、ずっと消えないもの、決して消えないもの、
そんなものを表現したい衝動が、私を突き動かしている。
部屋の明かりを消して、カーテンを開けた。
月明りが一筋、部屋に差し込んだ。
綺麗だな…
窓辺に座って、月を仰ぐ。
群青の夜空に煌々と輝く月が、私を導いてくれるような気がした。
私は、弦を鳴らした。
11. 結婚式の朝
「栄さーん!おっはよぉー!!ハルちゃん、連れてきたよぉー!!」
突然の叫び声に、眠りから引きずり起こされる。
慌ててスマホを確認すると、待ち受けには5:55と表示されていた。
ついさっき、夜が明ける前に…うん、出来たと思う。
その後、力尽きて寝てしまっていた。
そのまま畳の上で寝ちゃったから、身体がパキパキする。
パキパキする身体をほぐしながら、私は休憩室から出た。
あれは、リーダーおばあちゃんの声だ。
階段から階下を除くと…、「あんた、そこで寝てたのかい!?」と、
昨日と変わらず、テンション高めの声がお店に響き渡った。
「…梅ちゃん、おはよ、早いね」
リーダーおばあちゃん、梅ちゃんなんだ…梅ちゃんのハイパーな声に、
一階の奥の自宅に居た栄太郎さんも、さすがにお店にやってきた。
「なんだか眠れなくて来ちゃったよ、栄さん、モーニングコーヒー淹れてよ」
カウンターに向かう栄太郎さんと梅さんとは別に、私の視線はハルさんを探した。
「ハルちゃんなら、庭の方に居るよ」と、察しのいい梅ちゃんが教えてくれる。
梅ちゃんに向かって頷くと、私はテラス席へ出た。
外はまだ、薄っすらと明るくなり始めたばかりだった。
ツンと澄んだ空気が、すーっと肺の奥まで染みわたる。
ざっとお庭を見渡したけど、ハルさんの姿はない。
…たぶん、あそこだ。
最初に栄太郎さんとハルさんと出会った場所。
私はお庭から続く、森の奥へと進んでいった。
少し進んだところで、ハルさんを見つける。
ハルさんは樹の根元で、ずっと背の高い、その樹を見上げていた。
「お、おはようございます」
恐る恐る、挨拶してみる。
ハルさんは変わらずクールな表情で、こちらに視線を向けた。
「あんた、昨夜は眠れたの?」
お!?…初めて、気遣うような言葉を掛けてもらう。
ちょっと戸惑いながらも、
「えっと、あんまり…でも、大丈夫です」と、前向きに答えてみる。
「そう」と素っ気ない返事がきて、ちょっとがっかりする。
そうなると…何を話していいか分からず、ドギマギしちゃう…すると、
「シンガーソングライターって、ちゃんと稼いでるの?」と突っ込まれた。
痛いところを聞かれて、みぞおちの辺りがチクっとする。
「…え!? …いえ、まだあんまり…」
…やばい、会話が続かない…
「稼げないのに、なんで、やってるの?」
これまた、ドストレートに聞いてきた!
なんだか嫌な自己分析みたいで、逃げたくなってきた。
視線がきょどる…けど、思い切って、視線を合わせた…その先に、
真っ直ぐなハルさんが、真っ直ぐに私を見ていた。
その時、ふと分かった。
この人、ただ自分を偽らない、正直な人なんだ。
そう思えると、今までの緊張が嘘のように溶けてきた。
そして…「好きだから」 次の瞬間、自然にそう答えていた。
「そう」と、変わらず素っ気ない返事がきたけど、今度はそんなに嫌なものじゃなかった。
「戻るわよ」
森を抜けるハルさんを追って、私たちはお店へと戻った。
お店に戻ったハルさんと私を、栄太郎さんと梅ちゃんが待ち構えていた。
「あんたたち、コーヒーでも飲むかい?!」と、梅ちゃんの威勢の良い声が掛かる。
「いい、部屋でボチボチ支度する」と、素っ気ない返事のハルさんは一階の奥へと進んだ。
私はモーニングを頂きに、カウンターへ腰かけた。
「納得したのかな?」
私のモーニングを用意しながら、栄太郎さんが梅ちゃんに尋ねた。
「納得はしてないよ、でも、あの子は分からず屋じゃない…そして、我慢強いのさ」
コーヒーを啜る梅ちゃんのその答えは、何故か私の中にも自然にすとんと入ってきた。
ちょっと遠いタイプだったはずのハルさんが、なんとなく分かる自分が不思議だった。
その後、私はモーニングをご馳走様すると、栄太郎さんと梅さんのお手伝いに急いだ。
この理想的な喫茶店を結婚式場に変える作業。
更地になることを想像すると、今でも泣きそうになっちゃうけど、
だけど、今日がまたこのお店にとって大切な思い出の一つになるように、
精一杯、お手伝いしたい…そんな気持ちだった。
12. 小さな宇宙
お店の扉が開くと、栄太郎さんにエスコートされたハルさんが現れた。
歓喜の溜息と共に、さっきまでのザワザワが一瞬で静まりかえる。
本日の『森樹の里』は、お昼前から集まり始めた参列のお客さんたちで満員だった。
お店の一番奥の暖炉の前に、即席の祭壇が設けられ、
なんと…仙人おじいちゃんの本業が牧師さんだったとは驚いた。
扉から奥の祭壇まで、真っ直ぐ続く絨毯を、栄太郎さんとハルさんが一歩一歩進む。
そこに一列に並んだ参列者からは、時折、涙をすする音が聞こえた。
白いウェディングドレスのハルさんは、とても綺麗だった。
そして、気丈に凛とした姿が、とてもハルさんらしくて好きだった。
そんなハルさんとは正反対に、新郎さんは既にもう、ぐちゃぐちゃに泣いていた。
新婦さんを渡された時に、既に泣いてるって、どういうこと? 笑笑
そう言えば、新郎さんがパンダみたいな人だったのも、意外だった。
シュッとしたハルさんには、シュッとしたイケメンっぽい人を想像してたんだけど…、
でもまぁ、やっぱ、見た目通りいい人っぽい。きっと、ハルさんは正解だ。
牧師さんが二人を祝福し、二人が誓いの言葉を述べると、式は厳かに終了した。
「今日は!酒屋の酒蔵が空になるまで、呑むよぉ!!!」
そう、威勢の良い号令を掛けたのは、梅ちゃんだ。
式の後は、参列のお客さん全員による、大宴会となった。
「梅ちゃん、勘弁しれくれよぉ、うちの酒屋が潰れちまうよ」
そんなやりとりで、お店にいる全員が盛り上がっていた。
さすがのハルさんも、ちょっと顔がほころんでいるような気がした。
「さ、みんな、本日の宴会のメインイベントだ」
その突然の梅ちゃんのアナウンスにドキっとする…、きた。
「配信界の歌姫、遥香さんによる、お祝いミニライブです~!!」
いつのまにか、イベント担当のけんちゃんまで司会者的に登場する。
即席の祭壇の横に、これまた即席のステージが用意され、
私はけんちゃんに促されるまま、その上に立った。
「…えっと、本日はおめでとうございます、それでは何曲か、お祝いの詩を歌います」
あれ…? あまり気の効いたことが言えなかったなぁ…緊張してるのか?
珍しい場所で歌うってのもあるけど…おそらく、
久々のオリジナルの初披露…、緊張しないわけがなかった。
緊張を振り切るかのように、肩をぐるぐる回して、身体を解した。
靴を脱ぐ。足の裏でちゃんと大地を感じて、椅子に腰かける。
けんちゃんが、立派なスタンドマイクまで用意してくれた、いい感じだ。
そして、相棒を抱える…うん、いい、しっくりきた、いける。
まずは得意な歌で、ウォーミングアップだ。
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絡まって解けない 糸みたいに
時が経っていくほど 硬く脆くなっていく
ひび割れたままの記憶 片付けることもできずに
綺麗な服を纏って 全てを忘れたふりをしていた
きっとこのまま誰も愛さない 誰にも愛されないと
胸の奥ヒリヒリ痛む度に うずくまってそう呟いていた
幸せを願うことさえ怖くて 泣き方もわからずに怯えていた
肩を抱く誰かの温もりに 顔を上げるとそこにあなたがいた
その腕の中聴こえてきた音は とても優しく温かい音でした
一つずつ心が解けていく あなたと出会い 初めて愛を知りました
(「ファーストラブ」ソングライター;Uru)
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和気あいあい、ザワザワしていた会場の雰囲気が変わる。
ちょっと私のペースになってきた気がする…よし、ここで一気に畳み掛ける。
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世界で一番厳しくて 世界で一番優しい人
理由も知らないくせに いつも一緒に泣いてくれてた
ケンカしても言いあっても どんなに離れてても
何も変わらない あなたには一生かなわない
ウチは他の家とはちょっと違うけど、あなたの子供で本当に幸せだよ
ママ 生んでくれて感謝してるよ いつもありがとう
ママ あなたが教えてくれた 優しさ 思いやり 愛を
ママ あなたが見せてくれた 希望も 未来も 全てを
I Love You I Love You
何度も何度も 迷惑かけた それでも私を愛してくれた
未来の私は あなたのようになれてるかな?
I Hope I Can Be Like You
ママ 生んでくれて感謝してるよ いつもありがとう
ママ あなたが教えてくれた 優しさ 思いやり 愛を
ママ あなたが見せてくれた 希望も 未来も 全てを
I Love You I Love You ありがとう
(「ママへ」ソングライター;Ai/C3prod)
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ハッピーな曲に会場からも自然と手拍子が湧いた。
初めてのお客さんなのに不思議な一体感…、楽しくなってきた!
ここで…老若男女に刺さる、あの名曲を。
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なぜ めぐり逢うのかを 私たちはなにも知らない
いつ めぐり逢うのかを 私たちはいつも知らない
どこにいたの 生きてきたの 遠い空の下 ふたつの物語
縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かを 暖めうるかもしれない
なぜ 生きてゆくのかを 迷った日の跡のささくれ
夢追いかけ走って ころんだ日の跡のささくれ
こんな糸が なんになるの 心許なくて ふるえてた風の中
縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かの 傷をかばうかもしれない
縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に 出逢えることを 人は仕合わせと呼びます
(「糸」ソングライター;中島みゆき)
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名曲に万雷の拍手!
しまった…この後に、オリジナルを歌うセットリストにしてしまうとは…汗
まぁ…でも、私らしいミステイク、今に始まった話じゃない。笑笑
こういうピンチを何度も乗り越えてきた。
訳もなく、よぉ~し、ここからだ、って思ってる自分が居た。
「みなさん、ありがとうございます」
ライブが始まった時とは全く違う、まるで別の場所に居るような感覚だった。
一人一人のお客さんがとても近く、とても親しい人のように感じた。
「私…今回、たまたま家に帰れなくなりまして…このお店にお世話になってました。とても理想的な喫茶店で、お店に入った途端、本当に大好きになりました。そんな大好きなこのお店と、ハルさん、栄太郎さんのために詩を創りました。今朝、出来たばかりで…まだ、名前もない詩ですが、感謝の想いを込めて歌います」
歌う前の私の儀式。
身体中に空気を巡らせ、大きな波を作り、深く入り込んでいく。
大地からエネルギーを吸収し、音霊を言霊に変換する。
私を囲んで…小さな宇宙が出来る。
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風が強い夏の日は 樹々のせせらぎが子守り唄
テラス席から続く森へ出て 背の高い彼らと呼吸する
青い空を行く雲たち あなたと過ごした日々
夕日が落ちる瞬間まで 駆け抜けたあの頃
どんなに時が経っても 大切なものは消えない
ただいま 帰る場所はここだよ
月が凍える寒い夜は 群青色の空を見上げて眠る
朝日が森に上る頃には 熱いカフェオレが恋しくなる
ガツンと苦いけど ほんのり甘い淹れ方で
あなたの好きなカップが あなたの席で待っている
形あるものは消えても 大切なものは消えない
おかえり 帰る場所はここだよ
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自分の詩を歌う時は、本当に不思議だ。
私を囲んで出来た宇宙が、
小さな渦を巻いて、
そこに生まれた重力が、
みんなを引き込んでいく。
私はまだ、この小さな宇宙を、忘れていなかったんだ。
13. 終わりを告げるフクロウと馬
放心状態だった…、やりきったからかな?
その後も続く宴会の中で、私は黙々とご馳走を食べていた。
ミニライブはなんとか大成功で終わったみたいだった。
栄太郎さんも梅ちゃんも、他のお客さんたちも本当に大きな拍手を贈ってくれた。
肝心のハルさんの反応が気になったけど…一応、拍手はしてくれてた。
ただ、やっぱり、表情からは気持ちが読みにくい人。
その後も気になって、チラっと様子を伺うと、意外にも視線があったりした。
そうなると…ちょっとドキっとして視線を逸らす。そんなのを何回か続けていた。
ぱらぱらとお帰りになるお客さんもいる中、ほとんどがそのまま盛り上がる。
もちろん、宴の中心に居たのは梅ちゃんだった。
その梅ちゃんが、「栄さん、あの時計、止まってないかい?」
暖炉の上、壁に高く飾られた柱時計を指して、突然そう呟いた。
梅ちゃんが指した柱時計は、足元に掘られたフクロウが印象的な、
センスの良いアンティークが並ぶこのお店の中でも、一際別格のオーラを放つ存在だった。
14:00かぁ…、バスの時間まであと一時間のはずなんだけど…止まってるの?
「えっ」と小さく叫ぶと、栄太郎さんは急いでレジの方に向かった。
そして、レジ横から腕時計を取ってきて、
「はるかちゃん、ごめん、バスの時間まであと五分だ!」と、叫んだ。
放心状態の頭では、すぐにエンジンが掛からなかった…そんな私に、
「お嬢!急いで支度しな!」と、梅ちゃんが気合を入れた。
梅ちゃんの気合で自分を取り戻す!
やばい!さすがに明日もバイト休んだら、クビになる!
「でも、五分って、車じゃないと間に合わないよ…みんな呑んでるし…」
イベント担当けんちゃんが、あたふたと駆け寄ってきた、その時、
「けん!」と、ハルさんの叫ぶ声。それと一緒に何かを投げた。
チャリ…という音と共に、けんちゃんが受け取る。
けんちゃんの手のひらに、流線型のミニカーのようなもの…馬のマークが付いていた。
「え、俺、ハルちゃんのポルシェなんて、運転できないよ!!」
ハルさんが投げたのは、ポルシェの鍵だった。
「行け!呑んでないの、お前しかいない!」
けんちゃんは暫くおろおろしてたけど、次の瞬間、鍵を握りしめて、
「はるかさん!エンジン掛けて待ってます!お仕度を」と言って、お店から飛び出した。
飛び出るけんちゃんにつられ、私はお店の階段を二階へとダッシュした。
後ろから、栄太郎さんと梅ちゃんもついてくる。
休憩室に飛び込むと、目に入る物を片っ端からからバッグに詰め込んだ。
「はるかちゃん、忘れものしても送ってあげるから、貴重品だけ持って」
栄太郎さんにそう言われると、お財布とスマホとギターさえあればなんとかなると思えた。
梅ちゃんが脱ぎっぱなしの靴下を入れてくれるのが目に入って、泣きそうになった。
だいたいの荷物を詰め終わり、階下に戻る。
心配そうに見ているお客さんに見守られながら、挨拶もそこそこにドアへ走った。
最後にもう一度だけ、振り返った。
一番奥のひな壇のテーブルの前に、仁王立ちするハルさんが居た。
ウェディングドレスでも、仁王立ちなんだ。最後まで、らしくて笑えた。
バスに間に合うか間に合わないかの瀬戸際なのに、私は笑顔で思いっきり手を振った。
小走りで、友達みたいに手を振って、お店の扉から飛び出した。
14. いのちの名前
バスは…のんびりな田舎のバスらしく、五分遅れで来てくれた。
私たちがバス停に到着するのとほぼ同時に、向こう側からバスもやってきた。
ハルさんのポルシェは、どうやら、誰が運転しても暴れ馬みたいだ。
窮屈な後部座席に相棒と栄太郎さんを押し込んで、
私が助手席に乗り込むと、ぎゅるぎゅるとタイヤを鳴らして急発進した。
その後はハルさんとのドライブ同様、きゅるきゅると県道に出ると、
猪突猛進で加速し、一気にバス停まで到着した。
路肩にポルシェを止め、サイドブレーキを引くと、
けんちゃんは車から降りて、バスの運転手さんに手を振った。
「運転手さ~ん! 一人乗りまーす、お願いしまーす」
けんちゃんにドアを開けてもらい、私は荷物を抱えて助手席から降りた。
その後を、私の相棒を抱えて、栄太郎さんが降りてくる。
ほとんど車の来ない道路を素早く横切って、反対車線側のバスへと急ぐ。
バスの後方のドアが開き、栄太郎さんが相棒を座席まで運んでくれた。
バス後方の左側に、荷物と相棒と一緒に座る。
「運転手さん、終点までお願いします」
運転手さんにそう声を掛けて、栄太郎さんがバスを降りる。
私は窓を開けて身を乗り出し、栄太郎さんとの別れを惜しんだ。
バスを降りた栄太郎さんが窓の下に来て、私を見上げる。
「私はね…歌のことはよく分からないけどね」
そう言う栄太郎さんに、さっと一筋の風が吹きつける。
天頂より少し翳り始めた日が、キラキラと栄太郎さんを照らして眩しかった。
「君が生まれ持った宝物、名前の通りの、それを大切にね」
ファン!
栄太郎さんのその言葉と同時に、クラクションを鳴らしてバスが発進する。
みるみる小さくなる栄太郎さんが、手を振った。
バスが右に曲がると、栄太郎さんはバスの陰になり見えなくなった。
今度は、赤いポルシェと手を振るけんちゃんが右から左へと流れていく。
後ろを振り向くと、バスの後ろの窓にはどんどん小さくなる栄太郎さんとポルシェが居た。
なんでかな…、涙が溢れて止まらなかった。
なんだかもう二度と、栄太郎さんにもハルさんにも会えない気がした。
またこの町に来て、同じ道を辿っても、あの場所にはもう辿り着けない。
そんな愛おしさが溢れて、仕方なかった。
それでもバスは帰路を進んだ。家へ帰るために。
明日も歌うために。私は私の家へ帰るんだ。
森の横を行くバスの窓には、あの青い三角屋根があった。
白い雲が流れる空の下、青い三角屋根はどんどん小さくなっていく。
その青が見えなくなるまで、私はずっと追い続けた。
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青空に線を引く ひこうき雲の白さは
ずっとどこまでも ずっと続いてく 明日を知ってたみたい
胸で浅く息をしてた 熱い頬 さました風も おぼえてる
未来の前にすくむ手足は 静かな声にほどかれて
叫びたいほど なつかしいのは ひとつのいのち 真夏の光
あなたの肩に 揺れてた木漏れ日
つぶれた白いボール 風が散らした花びら
ふたつを浮かべて 見えない川は 歌いながら流れてく
秘密も嘘も喜びも 宇宙を生んだ神さまの 子供たち
未来の前にすくむ心が いつか名前を思い出す
叫びたいほど いとおしいのは ひとつのいのち 帰りつく場所
私の指に 消えない夏の日
(「いのちの名前」ソングライター;久石 譲/覚 和歌子)
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15. 帰るまでが遠足
「そっか…、『樹』…繋がりだったんだ」
バスに飛び乗ってから、どのくらいの時間が経ったのかな…?
すっかり暗くなった地元の街。私はうちの喫茶店の前に居た。
ボーっとする頭のまま、店の前で暫く、店の看板を眺めていた。
あの後、バスが終点に到着すると、運転手さんに起こされて目が覚めた。
いつのまにか眠っていたらしく、それすら覚えていなかった。
頬を涙で濡らしたまま、泥のように眠っていた。
なんだか…長い夢でも見ていたような、そんな感覚だった。
さっきまでの出来事は、本当に現実だったのかな?
本当は、神隠しにでも逢ってたのかな?
そんな感覚でバスから電車に乗り換え、地元の神奈川に到着した。
『珈琲(カフェ)の樹』
アンティーク調に掘られた木製の看板は、創業以来掲げている年季物。
私は、店のドアを引き開けた
チリリン。
『森樹の里』と違って、うちではドアに付けられた鈴が鳴る。
この音を聞くと…なんだか、帰ってきた、って気分になる。
「おかえり」
カウンターでパパが顔を上げた。お客さんにコーヒーを淹れてる最中だ。
オレンジ色の照明が映える、そんな夜に似合うような、パパお気に入りのジャズが流れる。
カウンターに四シート、二人テーブル席が三組に、四人テーブル席が一組。
『森樹の里』ほど大きなお店ではないけれど、
ダークな木調のテーブルや椅子、シンプルな調度品に囲まれた落ち着く場所だ。
今日もテーブル席は常連さんで満席だった。
「おや、はるちゃん、おかえり」
カウンターに一人腰かけてた常連の、白髭のお爺さんに声を掛けられる。
「こんばんは」と挨拶をすると、
私はカウンター横に相棒を立て掛けて、一番端の席に座った。
「なんだか、今回は、えらく長くはまってたね~」
お爺さんにコーヒーを出すと、パパがこう言いながら私の前に立った。
「うん…ちょっとね、あ、ホットケーキとココアにして、お腹空いてるから」
言い終わるのとほぼ同時に、まるで待ち構えていたかのように冷蔵庫から生地が出てきた。
ホットケーキが焼ける甘い匂いを嗅ぎながら、私はパパにあの事を尋ねた。
「パパが店を引退する時って、この店、どうするの?」
フライパンの上でホットケーキを返しながら、パパが答える。
「うーん、やっぱり、更地にするかな~」
…うん、薄々予感していたものの、直接聞くとやっぱりエグい…
「おじいちゃんの時代から30年、あと10年やったらもう十分かな…」
そう言いながら、パパはホットケーキを仕上げた。
目の前に出された、出来立てのホットケーキを上から眺める。
手間暇掛けて作ったホットケーキも、食べるのは一瞬だ。
でも、ホットケーキが美味しかったことも、食べて幸せだったことも消えないで残る。
もし、その時が来たら、この店にも「お疲れ様」と心の底から言いたい。
そんなことを思いながら、ホットケーキにナイフを入れた。
「ご馳走様。またね、はるちゃん」
閉店時間ギリギリになると、常連さんたちもぼちぼちお帰りになる。
白髭お爺さんに手を振って、お見送りする。
お客さんが帰った後も、店内にはコーヒーのいい香りが残っていた。
「コーヒーの香り…、好きなんだけどな」
オレンジ色の空間の中に漂う残り香を追いながら、
「やっぱり飲めるようになった方がいいかな?」と、パパに尋ねてみた。
「いやぁ~無理しなくてもいいんじゃない?」
店自慢のコーヒーカップを一つずつ丁寧に洗いながら、パパは手を止めずに答えた。
「喉にも絡むんでしょ…だったら、持って生まれたものを大事にしたら?」
パパのその言葉に、私は大事なことを思い出した。
「パパ、私の名前って誰が付けたの!?」
その唐突な質問に、一瞬だけ、パパはこちらに視線を向けた。
でも、またカップに目を落として、今度はなんだかニヤニヤしはじめた。
そして「パパだよ」と答えると、意味深に、嬉しそうにニヤニヤする。
…え、なんなの、なんなの…
めちゃめちゃ普通の答えなのに、そのニヤニヤって…あ、なんか分かった気がする。
おそらく、好きな女性の名前だったとか、そんなオチだ。
エモいストーリーを期待していたのに、あっさり裏切られたような気分でいると、
「でも一番気に入ってたのは、おじいちゃんだったんじゃないか~」と、パパが言う。
その言葉に、耳がピンと跳ね上がる。
「なんだったかなぁ…」一瞬、手を止めて天井を見上げるパパ。
「あ、そうそう!」と言うと、その魔法のような言葉を私へ投げかけた。
『香しい喜びを遠くまで届ける人』
その言葉は、私の胸の上でポンっと温かく解けると、またあたらしい私のお守りになった。
再び、カップに目を落として洗い続けるパパ。
そんなパパを見ながら、私はカウンター席から立ちあがる。
「お、先に帰ってるかい?」
「…うん、疲れたしね、先、帰る」
私は相棒を背負うと、荷物を持って、店の扉へ向かった。
「気をつけて、帰るまでが遠足だよ」
店の扉を押し開ける私に、パパがそう声を掛けた。
私は振り向かずに、Vサインした。
いくつものお守りをもらって、私は生きている。そう思った。
<終>
この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
【掲載歌詞】
日本音楽著作権協会(出)許諾第2205740-201号
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『時には昔の話を』 著作者名:加藤登紀子
『ファーストラブ』 著作者名:URU
『ママへ』 著作者名:AI、C3PROD/AI
『いのちの名前』 著作者名:筧和歌子、久石譲
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著作権表示
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糸
作詞 中島 みゆき 作曲 中島 みゆき
Ⓒ1992 by Yamaha Music Entertainment Holdings, Inc.
All Rights Reserved. International Copyright Secured.
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許諾表示
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(株)ヤマハミュージックエンタテイメントホールディングス
出版許諾番号 20222520 P
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カフェオレと赤いギター
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2022年5月5日 初版発行
著者 宮坂満美
連絡先 Twitter: @suwano_sakuya
Copyright © 2022 宮坂満美
All rights reserved.
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