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ウォーキングは「歩く瞑想」である

最近、スポーツジムに行っている。ジム行く目的は、単に運動不足を解消すること。やっていることと言えば、マシーンを使ったウォーキングを30分×2回がメイン。もちろんマスクをし、使った後はマシーンを消毒。ルーティンはこちら。

❶準備運動
❷ウォーキング30分×2回
❸腹筋、背筋など30回程度
❹ストレッチ

だいたい1時間半ぐらいで終わる。無理をしない、がんばらないことが続ける秘訣だと分かっている。たんたんと終わらせている。

しかし、終わった後の爽快感は何とも言えない。スッキリするのである。そのスッキリ感はどこからくるのか?

体がスッキリしたのか?、心がスッキリしたのか?どちらもか?私は、おそらくどちらもだと思うが、心までがスッキリしている理由がこの方のnote記事を読んで分かった。

華ー華さんの記事は瞑想を「ひとつの動作に集中する時間」と捉えると、noteを書くのもジャーナリングという「書く瞑想」と同じ効果があるという。

その華-華さんの記事の中に、この文があった。

ある人は「歩くことが瞑想です。」と言っていました。

これだ!と思った。同じように考える「ある人」がいてうれしかった。確かに歩くことも、瞑想のように思う。理由は、次のような現象があるから。

ウォーキングマシーンに乗り、スイッチを押す。速さと台の角度を調節しながら歩き始める。徐々にスピードを上げていく。ウォーキングなので、歩ける程度の速さに落ち着いたら、それ以上スピードを上げない。

一定のスピードになったら、することがなくなるので、ひたすら歩く。外に面した場所にあるので、外の景色を見るが、生垣が見える程度で変化なし。

そこで、noteに書く記事のテーマを考えながら歩く。いろんなテーマが浮かんできて、このテーマで書こうとアイデアが浮かぶ時もある。一石二鳥。運動もして、記事のテーマも浮かぶ。

さらに歩いていると、15分ぐらいたった時だろうか。汗ばんできたぐらいの時間帯。何も浮かばない時間が訪れる。何も浮かばない。何も考えない。ひたすら歩いているのである。

不思議な感覚である。いつもこうなのだ。

枡野俊明さんの「無心のすすめ」の中で、マインドフルネスと座禅について書いてあった。

マインドフルネスという瞑想法の核心部分は禅と同じと言い、

「過去や未来にとらわれず、現在に集中する」
「瞑想していて雑念が湧いてきたなら、そのこと自体は認めて、その雑念を手放すようにする

のが基本。そして、無心になることを目指す

ウォーキングをしながら、上述のように意図的に考えたり、悩みも浮かんだりする。悩んでいることがあってもいったん手放せる。悩みに対して別の考え方が浮かんできて、悩みが薄れ、「たいしたこと」でなくなる時もある。そして、無心になり、歩くことに集中している。

座禅をしたこともないし、瞑想をしたこともない。しかし、瞑想とはこのようなものかもしれないとウォーキングの経験と華-華さんの記事で思った。

ウォーキングを終え、ジムから外に出た時の爽快感は何とも言えない。一度、お試しあれ。

お気持ちがとてもうれしいです。感謝です。ありがとうございます。