【中国日誌】991日目 24.5.10

日記を書いていくと、私が、私から切り離されていく。私の経験が、感情が、思い、人生が、文章の中に、焼き付けられ、独立していく。そうして生まれた、私と言う、私から切り離された、自分を見て、ソレを見ている、私は、私とは異なる、何か、であると、理解する。そうすると、そもそも、私を見ている、その何かとは、何者かという話になる。私を、他人の様な視点で、見て、私は客観的な存在になっていしまている。ゆえに、主観として私と観測している、その主体は、いったい、何者か、と疑問が生じるのは、自然の流れである。私を、俯瞰して見れた時、私ではない、何かが生まれるのである。これは、概念的なものかもしれない。ただ、この世界は、何一つとして、現実的なものはない。全てが、意味の塊、即ち、概念の集まりなのである。なぜなら、私たちが観測する、現実的なソレは、光に分解され、身体に接触して、電気に代わり、脳でイメージとして再構築され、認識される。もう、現実の原形は、どこにもない。そうでしょ?そして、イメージとして再構築知ている時、概念というものを用いている。概念によって、構築の仕方が、変わるのである。そして、私は、私に対する、概念が、変化したのであるから、要は私が切り離された世界として、認識されたのだから、そこで、私ではない主観的な存在が生まれるのは、ある意味、現実的である。よって、その主観的な何かの誕生は、ある科学宗派からすれば、オカルトであるが、私たちに認識される世界の成り立ちを、考えれば、現実的なのである。主観的な何かの誕生に、祝福と感謝を。

朝4時に起き支度と日課。8時に出社。18時半に退社。ご飯食べて、21時半に寝た。ん、日誌の部分、少なくないか。

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