見出し画像

# 21 悩める人間

ニューヨークの夜景を空から追う画像を見ている。ブロードウェイの賑わいに点として見える人間が蠢いている。上から目線という言葉があるのだが、それをドローンは体験させてくれる。
地表に見える人の多くはこの大都市に世界各国から集まった人々であろう。
米粒のように見えるのだが「山椒は小粒でもぴりりと辛い」というか、色々と考え、喜び、感じ、悩んでいる人間である。然し、ドローンからは単なる点の映像でしかない。まるで人格がない様に感じてしまう!

一般的にはドローンのように上からものを見たい、それは本能であろう。
それらを振り切って地面の高さ、レベルに降りて行くには相当の精神的なエネルギーが必要だ。
前にも記載したのだが、先入観とか多くの理念は総じて見れば、天から見ているものなのかも知れない。人間を天から地表に引きずり下ろすのは意味のある事だ。地表に降りてきて、自分と真摯に向かい合う、するとソクラテスの言う『無知の知』の心境のになるのかもしれない。上から目線の根拠になる知識は本当の知識ではないはずだ。
医者が病気になって初めて患者の気持ちが分かるというが、同じであろう。
大病院での医師を目指すのではなくて、家庭医、開業医を続けるのもそれなりに苦労が多いのである。赤髭の様にそれを徹底するのは更に大変である。

ある画家が『俺たちは、心はとびっきり贅沢なんだ』と言っていた。芸術至上主義を唱えるのは分かる。だが、それには反対の気分だ。
ピカソの子供の頃のデッサンを見た事があるのだが、既に飛び抜けた技術を持っていた。その技術力に驚くのだが、彼の真骨頂ではない。
青の時代やゲルニカは地面に降りてきていると感じる。友人であり、隣人であり、俗人であり、普通の人間であるピカソの芸術は我々を魅了する。
地面からの芸術はエネルギーが必要である。同じ画家でもピカソの様には長続きしない事が多い。
ユトリロの極貧の時代の作品は地上に這いつくばいながらの生き様が伝わってくる。しかし、名が売れてからのものは優れているとは思えない。彼の素晴らしい時代は短かったと思う。
ゴッフォも若かりし頃の作品はつまらない。彼の晩年の作品は地面からの雄叫びが聞こえてくる。名作を輩出している。然し、そんなクリエイティブな気迫に満ちた時間は長続きしなかった。
ビュッフェも初期の同性愛への良心の呵責に苛まれている時代のものは良い。然し、有名になって、普通の結婚をしてからのものはそれほど良いとは思わない。
地面スレスレの芸術が自分と真摯に向き合った果実であることは分かる。
だが、それはアーテストの孤独や苦境、逆境から生まれたのだろうか?
例えばフェルメールなどは全く日常の普通の人物を描いているのだが、やはり地上スレスレの香りがする。使っている青に宝石が入っているようで、変色しない。裕福で静かな人生を送った画家であつたようだ。
こんなことから、どんな人間も、降りてくれば、自分と真摯に向き合えば、それなりに感動をもたらす作品が描けると言うことになるのだが、多分、この考えは間違っていないと思う。

ディレッタンティズム【dilettantism】と言われるかもしれないが、あえて好きな画家を主観的に述べてみた。
土の匂いのする、地上スレスレを強調したかったのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?